しかし、それにしても『恋したがりのブルー』は、ひじょうに要約のし難いマンガだといえる。いやいや、ストーリーそのものはとてもシンプルであって、つまり、各々恋愛状態にある四人の男女、高校生たちが、時系列にそって、付いたり離れたりをやっているにすぎないのだが、それではまったく作品の特徴を押さえられていない。
見られるべきは、やはり、こういう半径の狭い世界にアプローチした少女マンガには珍しく、他人の足を引っ張ってやろう、出し抜いてやろう、自分が幸福になることのみを第一義とし、腹に一物を持っているような人物が採用されていない、その人物の登場やアクションによって、物語が動かされてはいないことであろう。もちろん、最初は悪人だった子が、改心して良い子になる、性根は良い子だった、というのではない。そうした転向の様子を通じ、エモーションを描写、ドラマをつくり、転がしてゆく手法自体が、あらかじめ選ばれていないのだ。
蒼、陸、海、清乃の、四人の作中人物は、ただ、かつて好きだった相手を想い遣り、現在の恋人を想い、そして友人の気持ちを想う、誰も等しく傷つけたくないと願っていたはずのことが、なぜかしら、お互いを傷つけ合うかっこうになってしまう、このような逆さまに対して、たっぷり引き込まれるものがあるのは、ある種のデフォルメがきいた作風のなかに、作者の綿密な手つきが説得力を生んでいるためなのだが、ではその説得力はどこに由来しているかといえば、恋愛という誰しもに身近なテーマを媒体として、欲望を抑圧された主体同士のコミュニケーションを、ありありと描写しているところからやって来ている。おそらく、世間一般的には、ルックスもよく、優等生タイプの、清乃が陸に惹かれ、海が蒼に惹かれる、これの説明は、双方の前者の目には後者が抑圧よりも自由に映っていることに求められる。だが、じつは後者ですらも決して自由ではいられない。
このことは、5巻において、とくに印象的な場面、ヒロインである蒼と彼女に惹かれながらも無力にならざるをえない陸の、まずは84ページ目のあたりのやりとり、そして138ページ目のあたりのやりとりに、顕著である。
たとえどれだけのささやかさであったとしても、たったほんのすこしであってさえも、いったん本心を口に出してしまったなら、何もかもがすべてぶち壊しになってしまう、なりうる可能性がある。そのことの躊躇いが、言葉を足りなくさせる。他人にやさしくありたいとする気持ちが、翻って、他人を傷つけてしまう。さらには自分自身をも傷つけることになってしまっている。
どうしてこうも、感情の勢いだけが、ままならないのか。禁じきれないのか。過剰な事件性がそうするのではなく、思春期の日常、純粋さに忍び込んだ幾重もの疑問形が、こんがらかり、呼び水となって、喜怒哀楽を押し流す。こうした状景化の内に、『恋したがりのブルー』の、藍出でられた青さ、魅力はあらわれている。
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