ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年01月21日
 フルーツバスケット 19 (19)

 あと数巻続く様子であるが、いやいや、クライマックスが止まらないといった感じで、しかもそれが伏線の回収によってもたらされているのがめざましく、このまま最終回まで行っちゃったら、まちがいなく、名作の域だろう。高屋奈月『フルーツバスケット』19巻である。一部の登場人物たちにとっては運命そのものに近しい十二支の呪いは、そう遠くない将来、解ける。だが、その未来に夾がいないかもしれないことを思うあまり、透の目からは涙が溢れてしまう。その気持ちを何と呼べばいいのか、おそらくは恋であろう、しかし当の透と夾だけがまだ、それに気づけずにいるのであった。というか、ラブコメのパターンでみれば、この巻で、由希にほぼ噛ませ犬認定が出てしまったわけだが、そのことをとくに重大事とせず、むしろ彼を、サイド・ストーリー的な部分をガイドし、サポートする役割に、違和感なく転じさせたあたり、やったねえ、と思う。主人公である透とはほとんど無縁であるがゆえに、枝葉(後付け)にしか見えなかった生徒会パートが、ここで見事本筋にからんだのも、作者が、由希の役割をうまくリードしてきたからである。

 ところで。ここに来て、これが、アパシーからエモーションを回復する、そういったテーゼを過分に含んだ物語であることが、顕著となった。この巻でいえば、綾女のエピソードと翔のエピソードが、とくにそれを表している。かつては、他人を傷つけるという行為すら知らず、そのことに無自覚であるがゆえに、他人に傷を負わせてしまう人間が、自分が傷を負ったことで、その痛みにはじめて気づく、それを通じて、他人が他者たりうることを理解する。これは同時に、世界が自分を中心に回っているのではない、ということの理解でもある。人との関わりを経ることで、人は変わる、変わりうる、といえば、そうなのであるが、それが能動的に行われるのでもなく、受動的にもたらされるのでもなく、ただ半径5メートルのリアリティ=世界であるような、そういう自意識を守備しようとしたことの結果として、必然的に、認めざるをえないものになっている。もうすこし言うと、自分からの働きかけや他人からの働きかけが変化を呼び込むのではない、その働きかけが生じた時点で変化は達成された、と見なされる。なぜならば、人が人に行う働きかけのなかには、無関心ではない以上、エモーションが含まれていると考えられるからである。余談であるが、西尾維新が戯言シリーズのなかで書いてきたことも、同様の体であると思う。

 18巻については→こちら
 17巻については→こちら
 16巻については→こちら
 15巻については→こちら

 『フルーツバスケット ファンブック〔猫〕』については→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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