ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年01月20日
 『小説トリッパー』05年冬季号掲載の短編。〈あるいはなんだかんだ言っておれなんか所詮かっぺなんだよなって。自分ではよくわかってないだけで、言ってることやってることダッさダッさなのかもなって〉。やがて親の跡を継ぎ、北海道の地方都市でスーパーの経営者になる予定の〈おれ〉は、商工会の青年会に属していることから、新しい市長の発起した芸術祭の実行委員に名を連ねることになった。それで催し物としてポップスターを呼ぼうってことになった。だが当初の候補たちからはことごとく断られる始末、しかし〈おれ〉には予感があった。〈ユッキーなら来てくれるんじゃないかっていう〉。〈おれ〉はユッキーの大ファンなのである。みんなはそんな大物が来てくれるはずはないという。はたして。じっさいにユッキーのマネージャーは、オーケーの電話をくれたのであった。そのような出来事を通じ、〈おれ〉の内で高まるユッキー熱が、彼自身の存在理由と化してゆく顛末を、桜井鈴茂『おれのユッキー』は捉まえているのだけれども、ふつうに読むと、これ、落ちていない(オチがない)のである。いや、何をもって普通というのかはわからないが、ふつうこういうアウトラインだと、物語自体がストーカーふうな〈おれ〉の妄想であったりする結末を期待してしまいがちだ。たぶん、それをもって落ちている(オチがある)と見なすわけである。違うかな。でも、そのような傾向というのはあると思う。じじつここでも、意味ありげな語り口は、そういった読み手の好奇心を煽るだろう。しかし、着地点は、ちがう。ポップスターであるところのユッキーと出会った〈おれ〉は、一念発起して、片田舎でがんばるのである。〈おれによるおれ自身への闘いだな〉として、30代を一生懸命働いて、がんばるのである。じゃあ、それが駄目なのかといえば、そんなこともない。作中に次のようにある。〈かたや音楽やテレビやスクリーンの中で生き、かたやむしろ生きることから逃れるために音楽やテレビやスクリーンと向き合うんだ〉。この〈生きることから逃れ〉ていた自分こそが、〈おれ〉の闘わなければならない〈おれ〉なのであり、彼は事業拡大をもってして、その闘いを闘い続ける。それはある意味で、アフター・モラトリアムをいかにして生きるかといった姿形ではないだろうか。と、ここで興味深いのは、ではそれは誰のためにかといえば、あくまでもユッキーのために他ならない点だろう。ポップスターと付き合いたい、あるいは結婚したいといったモチベーションは、ティーンエイジャーの頃には効果絶大であるが、じつはここで〈おれ〉を動かしているのも同様のものである。つまり、いずれユッキーを迎えにいくために、なのである。じっさいにユッキーがそれを喜んでくれる可能性は薄いに違いなく、それこそストーカーとして処理される可能性のほうが高い。だが〈おれ〉は、ユッキーのことをほんとうに愛しているのは自分だけ、と、もしかしたら勘違いであることも自覚しながらも、がんばるのである。それをどう取るか、純粋だなあと思うか、馬鹿だなあと思うか、夢があるなあと思うか、気持ち悪いなあと思うかは、おそらく読み手の判断に任されており、そして小説は、落ち目になったユッキーに愛の告白をするため、〈おれ〉が上京することを示唆して、おわる。

 『終わりまであとどれくらいだろう』についての文章→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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