ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年01月19日
 ぼくとネモ号と彼女たち

 『カップリング・ノー・チューニング』が文庫化に際して改題されたものだということは、じつは読みはじめてから気づいた、つまり僕にとっては、数年ぶりの再読になる。率直にいって、『カップリング・ノー・チューニング』のほうが内容には合っている。また『カップリング・ノー・チューニング』という題の秀逸さについては、石川忠司だか神山修一だかが、どこかで書いていた、気がする。たまたまペアになったカップルの、チューニングの合わないことが、作品の要点であるわけだから。だいいち、『ぼくとネモ号と彼女たち』では、まるで『ジョゼと虎と魚たち』みたいではないか。とはいえ、小説ではなくて、映画のほうの『ジョゼ』をひとつのロード・ムーヴィーとして捉まえた場合、この変更は、そのゆるやかな影響下にあると考えてよさそうだ。物語自体は、おそらく『ワイルド・アット・ハート』や『テルマ&ルイーズ』、『トゥルー・ロマンス』といった、それらが60年代あるいは70年代のロード・ムーヴィーへのオマージュになっているような、90年代における破滅型ロード・ムーヴィーに対する一種のアンサーになっている。紋切り型にアメリカナイズされた主人公が、典型的な二人連れの「ここではないどこか」行を試みる、が結局のところ退屈で凡庸な生に帰着する。解説で豊田道倫が〈ああ、こういうわかりやすい行き場のない連中ってあの頃いたよなあと懐かしく思った〉と書いているが、たしかに、95年頃からしばらく続く、停滞と閉塞感を、窮屈な束縛としてではなく、ごく自然な空気として、作品のうちに付着させており、それこそ90年代に大学生やフリーターをやっていた人間あたりには、ノスタルジーさえ喚起させるだろう。ひじょうにJ文学している。初出は97年である。ちなみに車内でかかる音楽はスマパンにペイヴメント、ジョンスペにウータン・クランなどで、『ネヴァーマインド』のアナログにプレミアがついている(要するに、94年にカート・コバーンが死に、ニルヴァーナの価値が変わったことが、言外に語られている)といったところにも、時代性がよく現れている。いや個人的には、当時はそれが露骨にすぎて、ものすごく嫌だった記憶があるのだけれども、時代は流れる。今ならば、赤坂真理『ヴァイブレータ』や絲山秋子『逃亡くそたわけ』などと読み比べてみるとおもしろいかもしれない。

・その他角田光代の作品に関して
 「ロック母」については→こちら
 『酔って言いたい夜もある』についての文章→こちら
 『いつも旅のなか』についての文章→こちら
 『人生ベストテン』についての文章→こちら
 『対岸の彼女』についての文章→こちら
 「神さまのタクシー」についての文章→こちら
 『庭の桜、隣の犬』についての文章→こちら
 『ピンク・バス』についての文章→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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