ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年12月04日
  結局のところ、僕がよしもとばななの小説の良し悪しを判断する基準っていうのは、世界を対象化する視線、世界に内在する視線、世界を超越する視線、の3つのバランスなのかな。この世界っていう言葉は、家族という言葉に置き換えてしまってもいいかもしれない。家族を対象化するとき、家族は他者になる。自分がその家族に内在しているとき、彼らは他者ではない。しかし、その外部に立つときには、再び他者に戻る。

 ここには、沖縄を舞台にした小説が4編収められている。いちばん長いのは表題にもなっている「なんくるない」である。が、僕はこの作品がいちばん駄目だった。それ以外は、とても良いもののように読んだ。とくに「ちんぬくじゅうしい」は、書かれた時期というのも関係していると思われるが、『High and dry(はつ恋)』に通じる内容になっていて、ひとつのブレイク・スルーのようにも感じられる。だけれども、繰り返すが「なんくるない」は最後まで読むのが、けっこうきつかった。よしもと自身が「あとがき」のなかで「なんくるない」を失敗作だといっているが、僕がこの小説を駄目だと思った理由は、たぶん、それとは違っている。要するに、さいしょに書いた3つのバランスがひじょうに悪いのである。

 たとえば次のような場面に、それは如実に現われている。離婚を経験した「私」は本屋へ旅行関係の雑誌を買い求めにいく、そこで偶々、とても苛々した風な店員にあたってしまう、店員は「私」からはほとんど見えない理由によって、突然「私」を怒鳴りたてる、そのことで「私」はこれまで夫によって守られていたことに、「私」という人間はひとりでは何もできないことに気づく。このときの「私」の心中は、ちょっと僕には尋常でないように見える。

 「私」は思う。〈人があんなふうになってしまうなんて、考えられない。あれはちょっと線を踏みこえすぎている。あんなふうになることがあるなんて、ほんとうはすごく異常なことだと思う〉。ここで「私」が異常だと考えているのは、突然怒り出した店員のことではない、店員をそのように後押ししてしまうこの世の見えざる力みたいなものに対してである。いっけん、そういう風に読める。しかし、それはただのレトリックに過ぎない。「私」はじつは店員を赦せないのである、が、そのことの責任を世界の側に押し付けることによって、けっして自分は他人を責めるような悪人ではない、そういう態度をとる、悪いのは自分である式の自己憐憫に浸るのである。そのような態度は、元夫に対しても行われている。こういう自分と世界の関係、自分と他者との関係、それらのバランスが狂ってしまっているのが「なんくるない」なのだ。

 もちろん、そうしたバランスの狂いを直すという物語が紡がれているのであれば、批判はないのだけれど、ちがう、物語は、従来のよしもとの小説がそうであるように、不意に見る夢によって自己解決するのみである。「私」はただ自分の自意識をめぐっているだけなのだが、本人だけが、そのことに気づいていない。そういった意味合いで、彼女のなかには、じつは他者がいない。ただ自意識だけが存在している、ただ自意識だけで彼女は存在している。それはとてもとても寂しいことだと思う。
 
 ↑何度か書き直したんだけど、だめだ、満足いかねえな、これ。問題は、現実で起こる変化(他者の到来)が、夢に作用しているのは間違いないんだけれど、夢で起こっている変化が現実にフィードバックされていない。つまり「私」自身は、現実においては、セックスをする以外に、他者に関与していないということになる、かな。

 アイデンティティとは、じぶんがどういう状況に置かれても、この時この場所でも、あの時あの場所でも、じぶんを同一人物だと感じることのできる、その根拠となるもののことであると、さしあたりいうことができる。しかしそのばあいには、他者とは異なるところ、他者から切り離されたところにこそじぶんに固有なものがあるというのは、ひとつの幻想ではないだろうか。それどころか、そういう、他者との関係を削除したうえでの「わたし探し」のエスカレーションが、わたしたちのアイデンティティをめぐる不安を逆に煽っているという面があるということはないだろうか。

 鷲田清一「所有と固有」(大庭健/鷲田清一編『所有のエチカ』所収)


 たぶん、ここいらへんなんだよな。
 
 『High and dry(はつ恋)』についての文章は→こちら
 『海のふた』についての文章は→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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