ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年04月20日
 たとえば、東浩紀が『動物化するポストモダン』で述べている「データベース消費」論でもいいし、伊藤剛が『テヅカ・イズ・デッド』で述べている「キャラ/キャラクター」論でもいいのだけれど、そのようなオタク向けのサブ・カルチャーを題材にした読解のロジックを用い、高橋ヒロシの『クローズ』や『WORST』のシリーズや、あるいはこのゆうはじめの『クローズ外伝 リンダリンダ』のような二次創作ふうのサイド・ストーリーを見ることは、おそらく、できるが、しかしそれは同時にあらたな疑問を浮上させる。つまり、高橋ヒロシの諸作、ひいてはヤンキー・マンガ、ひいてはサブ・カルチャー、ひいては物語は、生き様を教えられるか、ということである。もちろん、サブ・カルチャーは必ずしも生き様を教えなくてよい。この考えを割り切っていったところに、もしかしたらオタク的な評価に顕著な「萌え」の発想があるのかもしれないのだけれども、高橋が描いているようなヤンキー・マンガの場合、彼を特集した記事やインタビュー、ファンのメッセージなどからあきらかなとおり、作中人物たちの生き方に憧れる、式の感想を免れることができないのであって、やはり、生き様系の意識は重要なテーマとならざるをえない。しかるに、生き様とは結局、ライフ・スタイルでありファッション・センスであり集団行動の原理でしかないとき、作中人物たちの生き方に憧れる、式の感想自体がそもそもあてにならないといえば、そのとおりなのである。近年の高橋や彼のフォロワー群が、一定の売り上げ、支持を得ながらも、表現のレベルにおいて、ひじょうにあやしいのは、ほとんどこのためにほかならない。たしかに、望むと望まぬにかかわらず不良にしかなれない少年というのは、いる。そしてそれは十分に生き様を扱ったストーリーになりうる。しかしその原因を、生まれや育ちのみに求め、安易にトラウマ化してしまったならば、遺伝と環境を重視したゾライズムの様式を脱さない。まあそうしたおかげで、文学における自然主義よろしく、リアルなどといった修辞が弄される程度の内容にはなっているのだろうが、そこにあてられるべき救いが、所詮、ライフ・スタイルだったりファッション・センスだったり集団行動の原理だったりでしかないのだとしたなら、とても寂しい。その寂しさによって正しく『リンダリンダ』というマンガは満たされている。この1巻には、読み切りで発表されたエピソードが二つ、それを受けて連載になってからのエピソードの序盤が入っているのだけれども、とくに連載分の、リンダマンこと林田恵と中学時代の友人である吉留圭一の誤解と対立は、彼らの生まれや育ちを不幸にしなければ不良の像を結ばれない手つきに、わざわざ、といった気がしてしまう。

 4話目について→こちら
 2話目について→こちら
 1話目について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)
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