ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年01月15日
 みずうみ

 〈私をあの街につなぎとめようとするものすべてが、面倒くさかった〉。大好きなママが亡くなってから、ちひろ=〈私〉にとっては、唯一パパだけが東京近郊の小さな〈あの街〉との関わりであった。でもパパは、やはり〈あの街〉側の人間で、それは〈私〉の現在ではなかった。いま一人暮らしをしている〈私〉の隣には、中島くんが眠っている。中島くんには不思議な雰囲気がある。〈私〉にはそれがわかる、それに惹かれる、引かれる。しかしそれは、この世ではないところに通じるものでもあった。

 よしもとばななの小説というのは、もはやある種の様式美で、その定型を毎度毎度繰り返し続けることが、ファンと呼ばれるような読み手の人たちを、安心させるのだと思う。肉親の死だとか、象徴的な夢だとか、海外旅行だとか、才能至上主義だとか、子供は産みたくないが、セックス(性交)大好きだとか、田舎への偏見だとか、なのに自然礼賛だとか、スロー・ライフ? いや、しかし、これは、『みずうみ』という小説は、そのなかでも群を抜いて既視(既読)感の強い作品であった。焼き直しというか、過去の作品のパッチワーク的な色合いが、かなり、濃い。ネタ的に手詰まりなのか、偉大なるマンネリズムへの到達なのかはわからないけれども、あれ? あれ? このシーン、べつの小説にもあったよね、といった感じで、読み進めた。とはいえ、ここ最近のもののなかでは、もっとも読後がよかった、すくなくとも僕は、いいんじゃなかしら、これ、と思うのであった。たしかに文章は弛緩しきっているし、全体の構成に関しても、とてもベテランの仕業じゃあないだろう、が、しかし、心に訴えかけてくるものが、間違いなく、あった。いったい、なにが。

 『みずうみ』という物語は、ある登場人物の告白というかたちをとることで、安寧に、閉じられる。告白というのは、ある意味で、内面をでっち上げる仕掛けなのであって、それは、すくなくとも2人以上の要員を求めるし、また、受け入れるほうにも、ある程度のエネルギーを必要とさせる、なので、時と場合によっては、うざい、ということは、タイミングの問題にもなってくるのだが、しかし基本的に、そのタイミングを用意するものは、親密さに他ならない、宗教という職業に徹していないかぎり、親密さのない関係での告白は、シリアスであればある分だけ、やはり、うざい。場違いなのである。逆をいえば、君と僕とのあいだに、親密さのあることで、ようやく、うざい印象は消去される、シリアスであることが許される、というわけだ。親密さのないことは、アパシーであるけれども、親密さのあることは、エモーショナルだろう。

 すぐに「世界、世界」と言い出す、セカイ指向の、余計な装飾のせいで、すこし見えにくいが、シンプルに、経過だけを取り出せば、これは、親密さが、具体的になってゆくことで、理解ではなくて、エモーションが通い合う、そういうお話に違いなく、その夜に、やがて僕が告白をし終えると、君は笑い、紅茶を入れるね、と言った。

・その他よしもとばななの作品についての文章
 『王国 その3 ひみつの花園』について→こちら
 『なんくるない』について→こちら
 『High and dry(はつ恋)』について→こちら
 『海のふた』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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