ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年04月08日
 群像 2009年 05月号 [雑誌]

 『群像』5月号掲載。松尾依子の『約束の夜に』は、「新鋭15人短篇競作」なる(恒例のといってもいいよね)特集に収められている一つである。が、ところで『小説トリッパー』で、宇野常寛が「教室の中のリアリズム」という、いわゆる青春小説についての評論連載を行っており、その第2回(春号掲載)で、今日における純文学のシーンで重宝されているような若手作家、とくに女性作家のあらわすそれは〈コミュニケーション空間の変容がもたらした自己目的化と動員ゲーム化は、現代における大きな文学的な課題として特異な存在感をもっていること〉を意味しているとし、同じ世代の男性作家が〈本来世界から与えられるべきもの――生きる意味や獲得すべき価値が与えられなかったという被害者意識に拠ってその世界観を構築していったのに対し〉て、つまり引きこもるのに反して、女性作家たちが〈より具体的にそんな世界――コミュニケーションの自己目的化 / 動員ゲーム化が覆う世界――をどう生きていくかという主題を選択している〉ことは、たとえば〈「働く」こと――「労働」という回路を通して表現されていると言えるだろう〉と述べ、〈そして彼女たちが労働という回路を通して描いたものは、そのかたちをかえて彼女たちが学園を舞台に設定した小説においても同じように残酷に、そして決定的にその世界を支配している〉ことの例に、津村記久子の『ミュージック・ブレス・ユー!!』や村田紗耶香の『マウス』、山崎ナオコーラの『長い終わりが始まる』を挙げ、〈これらの作品が描いているのは、いわば最初からガラスの靴を断念し、そして引きこもることすら選択できなかった十代の世界である〉といっており、まあ、宇野の論旨には人それぞれ意見はあるだろうが、個人的にはたしかにそのような傾向はあると思うし、おそらくは生田紗代の『たとえば、世界が無数にあるとして』あたりもそこに加えられると思うのだけれど、じつは松尾依子の『約束の夜に』も、こうした系列に見事にはまってしまう、という意味で、リアルであるのかもしれない反面、おどろきはすくない。アルバイトで家庭教師をしている大学生の多佳子が、教え子で中学生の実紀が〈学年が変わってからそろそろ二月が経とうとしているのに〉もかかわらず、〈一度も学校に行っていない〉ことにプレッシャーを感じるのは、要するに〈希望する高校に受かるための受験勉強を指南することより、義務教育の肩代わりを一人で引き受けることのほうが、多佳子にはよほど大役に思えたのだった〉からである。そうして小説は、実紀の姿、彼女とのコミュニケーションを一種の鏡とし、多佳子が、中学の頃には自分にもあったろう自意識の過剰をのぞいてゆく様子を、編む。内容の真摯さはともかく、正直、これぐらいの長さであるなら、もうすこし、言葉の一つ一つがデリケートであってもよかった。〈肉付きのはっきりしない体に手足だけ異様に伸びたりして〉という言い回しや、〈昔遊んだシルバニアファミリーの家のように〉といった単なる形容でしかない形容は、まるでどこかからか借りてきたふうに感じられるほど、この手のフィクションではよく見かけられる。

 『子守唄しか聞こえない』について→こちら


posted by もりた | Comment(1) | TrackBack(0) | 読書(09年)
この記事へのコメント
サイト運営し始めた者なんですが、相互リンクしていただきたくて、コメントさせていただきました。
http://hikaku-lin.com/link/register.html
こちらより、相互リンクしていただけると嬉しいです。
まだまだ、未熟なサイトですが、少しずつコンテンツを充実させていきたいと思ってます。
突然、失礼しました。
ARIDEtqv
Posted by hikaku at 2009年05月07日 13:16
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