ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年01月12日
 ああ、顔文不一致

 勢古浩爾は、おもしろ文章という芸にこだわっているのだろうが、僕はちょっと苦手である、言い分がではなくて、文体が、である。である、である、が勢古の持ち味である。どうでもいい情報である。と、すこし真似てはみた。さて、と。「顔文」とは、もちろん「言文一致」の「言文」をもじったものであり、「顔文一致」というのを最初に使用したのは、勢古によれば、未確認ながら、亀和田武であるらしいが、そういった書き手の見た目と書かれた文章の因果関係を問うよりも、ここでは〈その顔でその文か、その文でその顔か、というようなことを云々〉している。まあ新書だからというのもあるけれども、エッセイみたいな内容で、真面目くさって読むものではないない、これは、と思いつつ、読み進めた。だいたい、ルックスと文章のあいだにある緊張に後期の三島由紀夫は意識的であった、それが〈でた、三島由紀夫〉の一言で済まされているのは、ひどい、が、たぶんそこが笑いどころなんだろう、とすれば、はいはい、といった感じだろう。とはいえ、ところどころクスリとしたりもする。渡部淳一を扱き下ろす箇所は、あまりにもステレオタイプなので退屈だが、保坂和志の揶揄というのは、すくなくとも僕はあまり見かけないので、ちょっと可笑しかった。勢古は〈自治会の集まりなんかにいくと、いるよねこういうおじさん(略) ただこういう人が怒るとけっこう怖いのである〉と書いていて、そこで僕が笑ってしまったのは、すこし前に保坂が『新潮』の連載(「小説をめぐって」)で、パソコンの調子が悪いのでメーカーにクレームをつけた自分の行動を義憤だ、と宣っていたのを思い出したからである。ははは。たしかに自治会にいそうなおじさんなのだった。ところで勢古は、石田衣良の文章に見かけられる体言止めを洒落ている、という。しかし僕はといえば、あの体言止めこそが、気持ち悪くて、駄目である。そのあたりは、技術(に対する理解)の問題なのか、それとも好みの問題であるのか、すこし気にかかった。また勢古は、舞城王太郎の文章は、よく出来ているが、飽きる、それというのは結局、話し言葉における隠語(ジャーゴン)を書き言葉にしたに過ぎないから、だというのだが、うーん、それはどうだろう。ずっと以前の『群像』の、創作合評のなかで、舞城の書く話し言葉は、じっさいの話し言葉からすこしズラしてある、その力点の置き方について、川上弘美だか誰だかがすこし語ったことがあった、たしか大塚英志も何かの論でそれを参照していた気がするのだけれども、とここまで書いて、あ、ちげえや、あれは話し言葉じゃなくて、ネット用語に関してだったか、と気づいたら話に収集がつかなくなった。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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