田舎を出てから五年、大学を卒業し、社会人となって働く直は、久しぶりに帰郷したさい、初恋の相手である譲と再会する。〈思い出なんてない この町を出るまではそう思っていた〉のだったが、譲に対する想いだけは、そのせつない気持ちだけは、ずっと忘れたことがなかった。二人きり、言葉を交わせば、今でも〈譲ちゃんのちょっと泣きそうな笑顔が好き〉だと感じられてしまう。しかし彼の口から、近々結婚するのだと聞かされ、過去の痛み、現実のきつさが、憂鬱となってあらわれる。譲と結婚するのが、幼馴染みの鈴だというのも、つらい。わがままで奔放な鈴は、昔から、控えめな性格の自分とは、まるで正反対の人間だった。失意のまま、都会で一人暮らしのアパートに戻ってきた直が〈どうして鈴となの〉と呟く、こうした嘆きには、おそらく、選ばれる側と選ばれない側の違いは、あらかじめ定められており、その差異が埋めがたいとしたなら、絶望するよりほかないような後者の気分が、含まれている。だがその鈴が、やっぱり譲とは結婚しないと言って、直の部屋に転がり込んできたため、てんやわんや、一騒動持ち上がっていくのである。
べつに譲のことが嫌いになったわけでもないのに、どうして鈴は、周囲の人間にも迷惑をかけ、こんなことをしでかしたのか。じつはそこにも、直の場合とは同じではないにしたところで、自分は必ずしも選ばれた側に立っていない、という不安が隠されている。ほんらい譲は、高校を卒業したら、大学に進み、一度は町の外へと出てみたかった。けれども、父親が倒れてしまったので、家業を手伝わなくてはならず、その願いは叶えられない。もしも譲が、心の奥底でそれを悔やんでいるとしたら、ほんとうはここにいるはずじゃなかったとしたら、自分との恋愛もまた真ではないことになってしまう、この可能性を考えられてしまうことが、鈴にとっては、つらい。
たとえば『子供だって大人になる』において、直と鈴は、一個の対照にほかならない。そしてその対照は、都会と田舎という二項の分岐をベースとしており、ある意味、譲と彼の弟の行生の現在とも重複している。すでに述べたとおり、家庭の事情のため、譲は大学へ進むことを、都会に出て行くことを断念しなければならなかった。しかしながら、行生のほうは、譲のおかげで、大学に進み、都会へ行くことができた、はいいが、そうした兄の恩恵に対し、逆に負い目を感じてもいる。何かを得ることで何かを諦めなければならないとしたとき、登場人物たちはみな、イーブンの条件下にあるといえる。ただ、主観ではそれを認められないので、身近に育った他人の姿から自分の不幸せを演繹してしまう。そのような錯誤をあるいは、各人が真摯さを通じ、前向き、解消していこうとした結果、ようやく『子供だって大人になる』のかもしれない。
一回かぎりの、初恋の、片想いの、結末の、せつなさにも、ポジティヴな光が、宿されている。
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