ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年03月15日
 サトーユキエの『ノーバディ クライ』は、とても好感触な作品集であった。その作者がもうすこし長めの物語に取り組んだのが『子供だって大人になる』である。もしもこのマンガが、すぐれた内容であるとすれば、それはたぶん、ピュアラブルな片想いのストーリーとして成り立っていると同時に、上京という個人単位のエクソダスをベースにした一種の田舎論だからであって、さらには現代的な背景のなかに、二人の女性の逆さまな関係性を置き、どこへ行っても、何をしていても、他愛のない自分自身からは誰もまったく自由になれないことを、ちょうど読み手の感傷に見合うかたちで描けているおかげだと思う。

 田舎を出てから五年、大学を卒業し、社会人となって働く直は、久しぶりに帰郷したさい、初恋の相手である譲と再会する。〈思い出なんてない この町を出るまではそう思っていた〉のだったが、譲に対する想いだけは、そのせつない気持ちだけは、ずっと忘れたことがなかった。二人きり、言葉を交わせば、今でも〈譲ちゃんのちょっと泣きそうな笑顔が好き〉だと感じられてしまう。しかし彼の口から、近々結婚するのだと聞かされ、過去の痛み、現実のきつさが、憂鬱となってあらわれる。譲と結婚するのが、幼馴染みの鈴だというのも、つらい。わがままで奔放な鈴は、昔から、控えめな性格の自分とは、まるで正反対の人間だった。失意のまま、都会で一人暮らしのアパートに戻ってきた直が〈どうして鈴となの〉と呟く、こうした嘆きには、おそらく、選ばれる側と選ばれない側の違いは、あらかじめ定められており、その差異が埋めがたいとしたなら、絶望するよりほかないような後者の気分が、含まれている。だがその鈴が、やっぱり譲とは結婚しないと言って、直の部屋に転がり込んできたため、てんやわんや、一騒動持ち上がっていくのである。

 べつに譲のことが嫌いになったわけでもないのに、どうして鈴は、周囲の人間にも迷惑をかけ、こんなことをしでかしたのか。じつはそこにも、直の場合とは同じではないにしたところで、自分は必ずしも選ばれた側に立っていない、という不安が隠されている。ほんらい譲は、高校を卒業したら、大学に進み、一度は町の外へと出てみたかった。けれども、父親が倒れてしまったので、家業を手伝わなくてはならず、その願いは叶えられない。もしも譲が、心の奥底でそれを悔やんでいるとしたら、ほんとうはここにいるはずじゃなかったとしたら、自分との恋愛もまた真ではないことになってしまう、この可能性を考えられてしまうことが、鈴にとっては、つらい。

 たとえば『子供だって大人になる』において、直と鈴は、一個の対照にほかならない。そしてその対照は、都会と田舎という二項の分岐をベースとしており、ある意味、譲と彼の弟の行生の現在とも重複している。すでに述べたとおり、家庭の事情のため、譲は大学へ進むことを、都会に出て行くことを断念しなければならなかった。しかしながら、行生のほうは、譲のおかげで、大学に進み、都会へ行くことができた、はいいが、そうした兄の恩恵に対し、逆に負い目を感じてもいる。何かを得ることで何かを諦めなければならないとしたとき、登場人物たちはみな、イーブンの条件下にあるといえる。ただ、主観ではそれを認められないので、身近に育った他人の姿から自分の不幸せを演繹してしまう。そのような錯誤をあるいは、各人が真摯さを通じ、前向き、解消していこうとした結果、ようやく『子供だって大人になる』のかもしれない。

 一回かぎりの、初恋の、片想いの、結末の、せつなさにも、ポジティヴな光が、宿されている。

 『ノーバディ クライ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)
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