ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年03月11日
 なにわ友あれ 7 (7) (ヤングマガジンコミックス)

 それが現在であろうが、90年代であろうが、女性にひどいダメージを与えることに呵責のないクソみたいな野郎は、いつだってどこにだって存在しているのだった。南勝久の『なにわ友あれ』が、この7巻で、いちおうのピリオドが打たれるベンキ編のなかに描いてきたのは、そのようなゲスに対し、いかなる罪と罰がありうるか、という認識の問題だと思う。グっさん率いるスパーキーの猛追もあって、ついに捕縛されてしまったベンキは、その身柄をビートに引き渡されると、バーナーで火あぶり、紛れもない私刑(リンチ)にかけられる。こうした行為は完全に社会的な倫理を逸脱している。よい子は真似しないでね、どころの話ではないであろう。しかし、ここで見ておかなければならないのは、その私刑によって、ベンキの犯した罪、つまり複数の女性を連続し、拉致し、監禁し、暴行し、強姦し、脅迫しても平然としていられる態度が、彼らのルール内では絶対に許されていない、このことが示されている点であって、そしてそれは、行きすぎた暴力をふるった主体が、被害者の人格をかえりみないとき、法の裁きは十分に値するかという、今日の社会において、しばしば浮上すると同時に議論される問いを、極端なかたちで内包している。もちろん、ビートの会長であるマンジの処断、制裁が正しいわけではない。だいいち、改造自動車を乗り回し、他のチームと揉めれば、暴力的な解決も辞さない彼ら自身、一般的には犯罪者として括られる。したがって、彼らの正義はあくまでも、小さな枠内の秩序を盾にしているにすぎない。ここでいう小さな枠内とは、すなわち副題に置かれている「OSAKA-KANJO-TRIBE」の、そのトライブだと考えてよい。言うまでもなく、トライブのルールは、トライブの内部の人間だけが決定でき、トライブの内部でのみ通用する。そうしたルールが正常に機能しているかどうかは、トライブが正常に機能しているかどうかの結果上でしか、結局のところ、判断されないのである。たしかにベンキの罪は許しがたい。この感情にそうなら、作中の私刑は、必ずしも悪とはかぎらない。だが、外部に立つなら、やはりそれは、たんなる私刑以外の何ものでもない。あきらかに作者は、そうしたレイヤー構造を用い、物語をシリアスにこしらえている。グロテスクな描写も、おそらくは、そのために必要とされた。ところで、私刑の途中、マンジがグっさんに〈グっさん――あんたさっきから黙ってるけど――どう思うよ‥‥?〉と尋ねる場面がある。そこでグっさんが〈俺が好きやった女は――‥‥こいつらみたいな奴にマワされた……〉と言っているのは、前作にあたる『ナニワトモアレ』の、終盤の展開を指しているわけだけれど、それこそ『ナニワトモアレ』の序盤において、女性とセックス(性交)をするためだったら、どんな無茶もやらかしてきた人物の、個人の欲望にこだわるのではなくトライブ全体の規律を踏まえるまでになった成長が、『なにわ友あれ』ほんらいの主人公(でいいんだよね)テツヤの活躍とはべつに、作品にとって一つの柱をなしているのは周知のとおり。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻について→こちら 
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)
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