ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年01月10日
 デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

 「序文」にて仲正昌樹本人がいっているように、これは、あの偉大なる(!)思想家ジャック・デリダについての、ガイドという役割を、そもそも負っていない。では、なにが書かれているのか、シンプルにいえば、「生き生き」とした言葉に傾倒する人々への批判である。「生き生き」とした言葉と、そうではない言葉の対比を、デリダがいうところのパロールとエクリチュールの関係にかけ、そこから『デリダの遺言』という題名が、あくまでもアレゴリーとして引っ張り出されている。とはいえ、第二章と第三章は、クセのある現代思想入門ふうに、読めなくもなかった。クセというのは、つまり、さいきんの仲正に特徴的な、ところどころに牽制を噛ませる(――を多用する)文体のことであって、それを差し引いてみると、哲学やら現象学やらの簡単な知識の整理には役立つ、のかな。

 ともかく。それでは本題である、仲正の批判する「生き生き」とした言葉とは、いったいどのようなものを指すのか。ものすごくシンプルに、僕なりにいうと、それを耳にした(目にした)人間が、感情移入しやすく、その過剰な共感でもって、啓蒙という名の錯覚をもたらし、すぐさま判断停止に陥らせてしまう、そういう類の物言いのことである。自分を利巧だと思う人間は、自分の考えや言葉こそが、死んでいない、生きているものだと考える、だから、自分と違った考えの持ち主がいう言葉は、逆に、生きてはいない、死んでいると考える、しかし結局のところ、それは二項対立にしか過ぎないのであり、二項対立は、互いが互いを敵対視しているという限りにおいて、じつは相似形である。その相似に無自覚であること、あるいは、自分以外の考えが生きうる可能性をすっかりと忘却してしまっているという、そのような傲慢や怠慢に対して苛立つあまり、仲正は、だったら自分の思想は「生き生き」としていなくていいよ、と言い放っているように思えた。

 しかし僕が気がかりなのは、もしかすると世のなかには仲正の文章をこそ「生き生き」としたものとして見る人もいるのだろうな、ということである。そうならないための予防線を、仲正は、この本でも、あちこちに引いているように感じられるが、それでも仲正の言葉を読み(聴き)、ああこの人の言っていることわかるわかる、と、のめり込んでいったり、そこまででなくとも、影響され、フォロワー化してゆく人間というのは、たぶん、いる。だから重要なのは「生き生き」としているかしていないかではなくて、P143で仲正が〈現実が「生き生きしていない」と指摘することと、「生き生きとした真の現実」を求めることのあいだには大きな開きがある〉といっているように、ある文脈に身を寄せるにしても、ある文脈を警戒するにしても、その判定を、オートマティックにパターン化してしまう、お粗末な安直さだけは斥けようとする、そういう緊張のある態度ではないだろうか。

・その他仲正昌樹に関する文章
 『なぜ「話」は通じないのか――コミュニケーションの不自由論』について→こちら
 『ポスト・モダンの左旋回』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック