ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年02月25日
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 吉沢潤一の『足利アナーキー』は、『ヤングチャンピオン』NO.6(今週号ね)からはじまった新連載であるが、その一話目を読みながら、平川哲弘の『クローバー』が登場したとき以上に、おお、こいつはいよいよヤンキー・マンガのシーンにもあたらしい世代が出てきたな、と思わされたのであった。すくなくとも、個人的に「50年組」と呼んでいる現在の主流派とは、だいぶベクトルの違ったものが目指されている。もしかしたら、井上三太の『TOKYO TRIBE 2』や森恒二の『ホーリーランド』みたいな、都会派(でいいよね)の不良マンガを一周させて、正統なヤンキー・マンガのスタイルに着地させると、こうなるのか、という印象を持つ(そのほか『バクネヤング』の松永豊和の影響もうかがえるかしらと感じられるところもある)。ストーリーは、次のように幕をあける。七つのドラゴンボールを手に入れたハルキとカザマサだったが、しかし彼らの目の前に現れたのは神龍などではなく、腕に自慢のありそうな、たいへん柄のよくないバッド・ボーイの集団であった。多勢に無勢とはいえ、なんてことはない、ハルキとカザマサのコンビは、これを簡単にいなしてしまう。実践的な蘊蓄も含め、二人の、よっぽどケンカ慣れしていることが描写されているシーンは、ひじょうにダイナミックである。

 17歳、高校三年にしてヤクザから一目置かれるほどの喧嘩屋であるハルキと、ファッション誌の読者モデルをこなすちゃらいカザマサのコントラストは、この手のジャンルにおいて、スタンダードなものだといえる。そうした物語の構成上、もっとも重要なのは、作品の舞台が、栃木県の〈人口約15万8千人のここ足利市は華々しい歴史のある土地である反面…中途半端に栄えている中途半端な田舎であり…(略)中途半端な不良や阿婆擦れや田んぼの天国…つまりどこにでもある田舎…〉に設定されていることだろう。つまり意図的に、何もない場所が選ばれている。いつどのような時代にも不良にならざるをえない人間というのは、いる。その理由は、枝葉を見るのであれば、さまざまであるに違いない。ましてや、坊ちゃんくさい自意識の産物としてそれが描かれることも珍しくないぐらい、モダンのきわまった今日、何もない田舎で頭は悪くてケンカがつよいから不良になるしかなかった、というのは、さすがに呆れるよりほかないわかりやすさであるけれども、いやだからこそ、真理を突くがごとき生々しさを持っている。だいいち子供なんて、そんなものだろうよ。登場人物のディテールは、まだ十分なわけではないが、ハルキもカザマサも、何やらドラマがあってというより、自然と不良になってしまったタイプであるふうに見られる。そしてその、自分の身の振り方に対して、ほとんど屈託のないことが、『足利アナーキー』の、一種のリアリティを補っている。

 たとえば『ケータイ小説的。』の速水健朗は、〈暴走族が反社会的な行動をとったように、一九七〇年代〜一九八〇年代に見られる、ヤンキーの反抗の矛先は親や学校といった社会へと向かっていた。しかし、現代ではその構図は消失している〉と述べ、〈現代のヤンキーとは社会に反抗する存在ではないのだ〉とし、〈一九九七年には(略)少年漫画週刊誌を代表するヤンキー漫画がどれも同じ年に連載が終了している〉のであって、〈そういった旧ヤンキー文化が衰退していったのと入れ替わりに台頭してくるのが、自分の内側の敵=トラウマとの闘争を描く内省的な作品群だ〉としながら、現代的なヤンキー文化と郊外風俗とケータイ小説の相関を論じているが、『足利アナーキー』にあらわされている不良の像は、そのさらに一歩先をいっている、あるいはもっとずっと先にまで突き抜けているようにさえ感じられる。

 個人的に「50年組」と呼んでいるマンガ家の多くは、昭和50年(1975年)前後の生まれである実年齢のためか、作中に、何か、人生訓めいたものを込めたがる。しかし、じっさいに描かれているそれらはほとんど、身近な家族や友人との関係性をベースに発想させられたローカルなルールでしかなく、真の意味で倫理的だと言い難い。彼らよりもずっと若い世代の平川哲弘ですら、この陥穽からは逃れられていないので、善悪の判断にその場しのぎの危うさを認められる。もっというなら、不良の存在自体を悪として示すことに躊躇うあまり、たんに主人公の敵がイコール不良であり悪であり、したがって主人公はイコール不良ではないし悪ではない、の公式でやっているのみなのである。これに関しては、主人公の人格をまったくのクズ人間として造形することも辞さなかった90年代前半のヤンキー・マンガ群にくらべ、不良のおっかなさ(不良になることのおっかなさ、不良がいることのおっかなさ)を深層のレベルで無自覚に隠蔽している、という点において、すくなからず後退しているといわざるをえない。だいいち、不良が無害であるなら、誰も彼らに眉を潜めたりなどしない。愚かではないのなら、誰からも忌まれたりする必要などないのだ。

 反抗すべき対象もなく、もはや内面の闘争にかかずらうのもかったるい、このような不良がハッスルするとどうなるのか。『足利アナーキー』の一話目では当然、退屈しないで済むなら何でもあり、な状況が繰り広げられている。題名に置かれているアナーキー、アナーキズムとは、おそらく、そうした無軌道さの隠喩となっているのだろう。たかだか公園とコンビニ前の場面だけで、とにかく、不良少年たちの砕けっぷり、救いがたく傍迷惑で、タガの外れた様子が、うまく出せている。ジャージーを基調にしたファッションのセンス、日本のメロコア系に熱心な音楽の趣味も、カテゴリー的な、らしさ、を、よく掴んでいる。21歳の若い作者が、ここからどこまでまじに持っていくのか、あんがいギャグの調子でやっていくのか、行方は不明であるけれども、ヤンキーのタチの悪さ、程度の低さを、このぐらい、開き直り、思い切って、表現できるというのは、今や圧倒的なつよみであって、ほぼ独自の路線をひらけている。なにせ、主人公たちを指し、その土地を「板東の大学」と呼んだ〈フランシスコ・ザビエルも……〉それから所縁の〈足利尊氏も…相田みつをも…足利市民も関東平野も渡良瀬川も…アピタもゲオも栃木県民も太田イオンも…佐野アウトレットも佐野ラーメンもイモフライも〉そればかりか〈全国民も…全世界もビルゲイツもマドンナもヒョードルも…宇宙も…星も…神も…こいつらのことをこう罵るに違いない…………〉のである。〈人間失格!!!!〉と。いやいや、その、まさに極悪な人間失格ぶりは、スタート当初の、加瀬あつしの『カメレオン』や米原秀幸の『ウダウダやってるヒマはねェ!』をも、しのぐ。

 「ボーイミーツガール」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)
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