ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年01月08日
 砂漠

 獲得も喪失もない時代の、すばらしき青春と友情を、この作者ならではの様式美により、安寧に紡ぎ出したのが『砂漠』という小説である、と、ありていにいえば、そんな感じだろうか、しかし、僕には、これはちょっと、あまりにも弛緩しきったお話であるように思えた。だいいち、物語の核となる登場人物たちが、ずいぶんとひねているわりには、あんがい物わかりがよく、そのひねているところも含めて、じつは素直なのであり、まったく感情移入ができない。そのことが物語自体のゆるみにも作用してしまっている。これまでの伊坂幸太郎の作品を、僕は、まあ時と場合によるとしても、それまでそっぽを向いていた登場人物たちが、物語の展開上、やむを得なく連帯する、といったラインで捉まえていたのだが、ここでは逆に、登場人物たちの身勝手な道理を盛り上げるためだけに物語が存在する。言い換えれば、登場人物たちが物語に奉仕するのではなくて、物語が登場人物たちに奉仕しているのである。その結果、お約束の強度がつよまってしまった。ドキドキとハラハラは、せめて予定調和程度のものに過ぎない。そりゃあ大学時代などといえば、大仰な目的やテーマのないことが、その生活の醍醐味であるのだから、そのようになるのは仕方がないといえば、そうなのだろうけれども、そういった中途半端な認識を、ファンタジーに適用する手つきのぞんざいさが、細部の積み重ねを、時間進行の装置以外には働かせない。語り手である〈僕〉が、いくどとなく示す〈なんてことは、まるでない〉という決め台詞は、いわばキューである。〈なんてことは、まるでない〉という響きは、やはり、いっけんひねくれている。直前の(じつに村上春樹的な)センテンスに対する否定になっているのだが、しかし、その言葉をきっかけとしてやってくるのは、ご都合主義的な時間の短縮だろう。つまり、語り手の思ったとおりに物事は運びませんでしたよ、という意味合いを過分に含むことで、そのあとにおける馴れ合いというか、済し崩しの進捗を、読み手に対し、暗黙のうちに納得させようとする仕掛けに他ならない。もちろん、それをアイロニカルな処理として捉まえる向きもあるのだろうが、いや、そうではないだろう。だいたいアイロニーだとすれば、語り手であるところの〈僕〉は、いったい作品世界におけるどの水準から、それをいっているのだろうか。その点が、ひどく不明瞭なのである。共感がすべてなんだ。って、まさか。結局のところ、そういったことの綿密に設定されていない、審級の無自覚さに思い当たれば、いささか興が削がれてしまうのであった。

 (↑思うところがあり、大幅に書き改めました)

・その他伊坂幸太郎の作品に関する文章
 『呼吸』について→こちら
 『死神の精度』について→こちら
 『魔王』について→こちら
 『グラスホッパー』について→こちら
 『チルドレン』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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