
なにを書けばいいのか迷ってしまうが、第一部を読みながら、人の心を苛む最たるものは、やはり恋愛なのではないかな、と思う。『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記 1930-1932 / 1936-1937』という題名に、あるいは「編者序」にあるように、これは、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインが1930年から1932年そして1936年から1937年にかけて書いた日記を、再現したものである。
僕の記憶や計算が間違っていなければ、『論理哲学論考』が編まれたのがたしか1918年で、それはウィトゲンシュタインが29歳の頃であるから、1930年に彼は41歳のはずである。
そのときウィトゲンシュタインは、マルガリータという女性に恋をしていた。すくなくとも〈私は彼女を愛している、あるいは愛したいと願っている〉と日記に書き留めるぐらいの気持ちにはなっていた。もちろん、そうしたことは、ウィトゲンシュタインの思考を追う際には、さして重要な部分ではないのかもしれないが、しかし、1931年11月7日の箇所にあるような、絶望に対する見解は、マルガリータへの想い抜きには、到達しえなかった域だろう。ある意味において、この本のなかで、もっともエモーショナルなところである。哲学と宗教に関してということであれば、それはむしろ第二部以降、顕著になってくる。
ところでウィトゲンシュタインは、いくつかの場面で、自分の視た夢について、事細かに綴ろうとしている。夢というものは、基本的に、断片的なものであり、言葉で、ストーリーとしてすくいとるのは、難しい。その抽象性は、もしかすると〈私の本『論理哲学論考』には素晴らしい真性の箇所と並んで、まがい物の箇所、つまり、言ってみれば私が自分特有のスタイルで空所を埋めた箇所も含まれている。この本のどれだけがそうした箇所なのか私にはわからないし、今それを公正に見積もるのも困難である〉といった言い分に通じるものだという気がしないでもない。
あるいは、そのようなものの集積として、この『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記 1930-1932 / 1936-1937』はあるのかもしれず、言葉足らずであるがゆえの難解さは、だから『論理哲学論考』がそうであったように、まあ、アフォリズム群における効果的な効果をもたらす、けっして聡明な人間ではない自分が、あたかも聡明な人間であるかのような、錯覚した、そういう気分にはしてくれる。