ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年01月07日
 砂時計 8 (8)

 率直にいって、当初はそれほど関心を持っていたマンガではなかったのだけれども、7巻のクライマックスぶりでその気にさせられたら、そりゃあ8巻は感涙の域であった。作者のコメントによれば、このあと番外編的なエピソードが続き、ぜんぶで10巻までは出るそうだが、実質上のストーリーは、ここで完結している。一組の恋人たちの14年間を追った、芦原妃名子『砂時計』である。

 初恋の人である大吾と別れ、自分の道を歩き出した杏であったが、その胸中は、未練とも後悔ともつかない想いに囚われたままであった。大吾もまた、同様に吹っ切れない気持ちを抱えて過ごす日々である。20歳、同窓会で再会したふたりは、しかし、やり直すのではなくて、前へ進むことを約束して、とおくとおく離れてゆく。思い出の砂時計は、そこで、時を刻むのを、止める。それから6年、杏はといえば、ようやく新しい恋に出会い、そして結婚を決めるのだが、価値観の違いから、けっきょく破談になってしまう。そのことに疲れ、暗く、ふかく落ち込み、心を病んでしまった彼女は、自分を置いて自殺してしまった母と同じように、ひとり、死に場所を求めた。

 と、ここまでが7巻の筋であり、8巻では、そうして杏の運命がどこに辿り着くのかが描かれている。もちろん体裁としては、ラヴ・ストーリーである以上、物語は、杏と大吾の描く恋模様を主軸として構成されるわけだが、その色めき具合は、杏の母親の不在により照射されている。もうすこし言い換えると、大吾とのラインに生じるのはプラスの浮力であり、母親とのラインはマイナスの重力を発している、両者の緊張関係が、主人公である杏のエモーションを左右する、といった図式が根底に敷かれており、それが読み手の心を動かす。

 杏がまだ子供だった頃、疲弊しきっている母親にかけた「がんばれ」という言葉は、ある種の呪いである。そのせいで母親は死んだ、すくなくとも彼女はそう考えている。

 鬱病を患っている人間に対して、「がんばれ」と言ってはいけないといわれるように、現在では「がんばれ」の禁止は、つよい説得力を持った他者への働きかけだとされることがある。だが『砂時計』において行われているのは、「がんばれ」の禁止の禁止だといえる。ここで重要なのは、その「がんばれ」という言葉自体の重みではなくて、それを発する人間が「がんばれ」という言葉に込めた想いの重みである。もちろん、その想いの重たさこそが問題であるのならば、それはたしかに人を苦しめるだろう。じっさいに杏は、自分が母親にいった「がんばれ」という言葉と、大吾にいわれた「がんばれ」という言葉を、ダブル・スタンダード化してしまい、ついに身動きがとれなくなるのであった。

 「がんばれ」という言葉は、いわば「弱さ」を否定するものである。「弱さ」を否定し「強さ」を肯定する。「弱さ」は、ときとして身近な者を巻き込む、しかし「強さ」は、ときとして身近な者を平気で傷つける。だから「強さ」は「優しさ」の上に成り立たなければならない。では「優しさ」とは、いったい何を下敷きにして為されるものなのだろうか。

 7巻で、大吾は、杏に「がんばれ」といった。それはつまり、自分を救えるのは自分だけだ、ということの言い換えである。いや、だからといってそれは、ひとりで生きて、ひとりで死ね、という言い切りではない。過去と現在と未来をひと繋がりとして見たときに、過去にいっしょにいられなかったことは過去のこととして、今このときをこうしていっしょにいることがあるように、もしも君がこの先も生き延びるのであれば、いつか、やがて、もしかすると僕たちはふたたび出会えるかもしれない、という、祈りの言葉に他ならない。ほんらい祈りは、強要ではなくて、ただただ切実な、それこそ無為に帰すことも厭わない働きかけに違いなく、そして祈りは、この巻のラストで、ささやかな福音となり響き渡る。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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