ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年02月12日
 SUPER JUMP (スーパージャンプ) 2009年 2/25号 [雑誌]

 西森博之が『道士郎でござる』を描いたように、加瀬あつしが『ゼロセン』を描いているように、90年代にヤンキー・マンガで鳴らした作家が、00(ゼロ)年代になって、敗戦以前の日本男児的な精神を現代にぶつけてきていることは、彼ら自身の思惑や表向きはどうであれ、本質的には、中途半端にアメリカナイズされたこの国の男性性を問うている、という意味で重要だ。またこうした観点からなら、ヤンキーの語が、アメリカ人と不良少年の両義性を持っている事実も、不自然ではなくなる。それを前提にしたとき、柳内大樹が『スーパージャンプ』NO.5(09年2月25日号)において、読み切りで発表した『バンカラボーイズ』にも、やはり、注目せざるをえない。ご存知のとおり、『ギャングキング』のヒットを生み、今日のヤンキー・マンガのシーンで、大勢のファンを擁するトレンド・ラインとなり、西森や加瀬たち90年代的なヤンキー・マンガ家に比べれば、およそ一回り下の世代にあたる、その作者が、昭和21年の旧制高校を舞台とし、モラトリアムの馬鹿騒ぎを捉まえたのが、『バンカラボーイズ』である。相変わらず、とってつけたかのような問題意識に、わざわざさあ、といった気がしてしまい、鼻白む部分もなくはないのであったが、しかし、いわゆるベタなネタで押し切ったストーリーは、決して悪くはない。こういう、善悪の判断をよそに、無邪気さが、ただただ理想を夢見るていで、一話完結型のエピソードをやらせたら、柳内は見事にその良さを発揮する。先に述べたことを反故にしてしまうようだが、『バンカラボーイズ』の比較対象として挙げるべきは、『道士郎でござる』や『ゼロセン』ではないだろう。おそらくは、00年のテレビ・ドラマ版『池袋ウェストゲートパーク』の、とくに八話目の内容であった。惚れた女性のため、身を削る人物を見、仲間たちが、ほとんど無償で、協力を申し出る。そのようなプロットのなかで、社会に出るにはまだ未熟だから不良少年をやるしかない弱さに対し、ある種の覚悟が突きつけられている点に、共通性がうかがえる。したがって、このマンガにとって余剰だと思えてくるのは、じつは終戦直後という設定である。登場人物が、バンカラであるよりもボーイズであることのほうが鮮明なのであって、両項のあいだに何かしらの化学反応が起きているわけでもなく、要するに、今に置き換えても十分にやれたドラマにほかならない。そうして、柳内が戦後日本をまるで現代みたいに描いてしまうことと、西森や加瀬が現代をあくまでも敗戦以後の日本として描くことは、たぶん、スタンスが決定的に異なっている。それが世代に由来するものなのか、当人の資質や年齢に由来するものなのか、あるいはもっとおおきく時代背景のパースペクティヴで踏まえるべきものなのか、もしも2010年代から先になってもヤンキー・マンガのジャンルがなくなっていかないとき、あらためて考えていかねばならない宿題の一つだと思う。

・その他柳内大樹に関する文章
 『ギャングキング』
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 「オヤジガリガリ」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)
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