ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年01月28日
 柳内大樹の『ギャングキング』には、かつての吉田聡みたいに学園ラブコメと不良ヴァイオレンスのアマルガムであるようなヤンキー・マンガの路線をいって欲しかったが、結局、高橋ヒロシ以降ともとれる国盗り合戦的な不良ヴァイオレンスの方向に向かってしまったことを、とても残念に思う。とはいえ、当人としては、おそらく、ハロルド作石の『ゴリラーマン』の、藤本がしばしばモラトリアムの自由と不自由で迷う姿を、一つの手本に置いていることは、以前に、ひさびさに悪魔のような自分を取り戻したぜ、的なセリフがオマージュされていたことから、うかがえる。だが、そのことが結果的に、主人公であるジミーの造形を、ちょっと、頼りないものにしてしまってもいる。彼の、リーダーとしてのスケールが、エピソードごとにぶれる、生きている人間だからぶれるのは当たり前じゃんね、というのはあるのだけれど、そのぶれの奥底にあるべき芯すらもぶれてしまっているふうに見えるので、どうも頼りないのである。もちろんそうした、先行する作品群と比べたら、筋の通っていないところを、あえて描いている点を指し、新しさといい、今日のリアリティをよく掴んでいるとするなら、ああ、まあ、たしかにそれはあるのだろう。さて。この15巻では、かつて『ヘドロ会』に在籍し、現在は建設現場で働くチャンベが、居酒屋で、がやがやうるさいアラーキーと相まみえたことから、バラ学の不良グループと元不良の土木作業員たち(ワークマンズ)とが、いさかい、抗争に発展するくだりが描かれている。いうなれば、モラトリアムと社会の衝突が、その背景に見え隠れしているわけだが、しかしここで重要なのは、それが決して子供対大人の図式にはなっていない、いやむしろ、子供対大人の図式になってはいないがために、学生と社会人とが、たんなるカテゴリーがべつの、同年代の人間同士の、暴力による対立関係を結べていることだ。当然、これが導き出しているのは、成熟などしない男性像にほかならない。おそらく、作者の思惑は、そのような男子のイメージに対してさらに、なるたけ争いを穏便に解決したいので、非の所在を明らかにしようとするジミーと、そして元『ヘドロ会』のリーダーで、今の段階ではメインのストーリーに噛んではいないが、高校にも行けずに働くことを良しとするヘドロベロを、子供から一歩先に進んだ場所へ配置することだと考えられる。が、ジミーの立ち振る舞いも含め、長篇向けのドラマと文脈のつくり自体は、相変わらず、うまくない。
 
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 「オヤジガリガリ」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)
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