ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年01月04日
 テロの社会学

 本書『テロの社会学』は、佐伯啓思と大澤真幸の3度にわたる対談をまとめたもので、いちばん最初の部分は、九・一一テロの1ヶ月後、つまり01年の10月に行われている。「予言者と大統領」と付せられた、その章タイトルは、今日におけるカリスマの姿を示唆している。佐伯は、ビン・ラーディンとブッシュ、ふたりの指導者の立ち位置から、ふたつのタイプのカリスマ像を抽出する。前者は、イスラム過激派を象徴し、後者は当然のように、西洋近代を代弁している。大澤は、そこからさらに両者の差異を突き詰めてゆく。2種類のカリスマは、ある意味で、異なるふたつのテクスト、つまりコーラン(イスラム教)と新約聖書(キリスト教)をベースにしているふうに見てとれる。そして双方における、超越と内在のあり方の違いを、大澤は、次のように、いうのである。イスラム教は、超越的な起源を共同体の外側に保持し、その啓示を、特殊な通路(使徒)=マイク=マホメット(ムハンマド)をつうじて、共同体のなかにもたらすわけだけれども、対してキリスト教の場合、超越性が人間の内側に内在してしまっている。新約聖書は、キリストという対象を見聞した、さまざまな立場の人間によって編まれたものだからである。キリストの言ったことがそのまま書かれているわけではない。要するに、神の言葉がテクスト化されているのではなく、あくまでも作者のうちにある言葉がテクストとなっているのだ。人間界の外部に存在する超越性は摩耗することがないが、人間界に内在する超越性は、システムのダイナミズムにより、摩耗する。ブッシュ大統領の、あのもはやカリスマなのかそうでないのか判然としない佇まいは、もしかすると超越性の消耗しきった姿なのかもしれない。またそれは同時に、民主主義や資本制の内部において、すべての合理化が目指される、近代社会の徹底とパラレルだともいえる。小泉や、たとえばオウムの麻原なども、じつはそのいちヴァリエーションに過ぎなく、取るに足らない詰まらない人物、ほんらいカリスマの否定であるような人がカリスマになってしまう、そういう転倒に現代の特徴を捉まえる。そして〈人物の問題ではなくて現代の民主主義というもの自体がカリスマを要求する。カリスマを生み出せないにもかかわらずそれを待望する。しかしほんとうの意味でのカリスマが存在しうる時代ではないから、パロディとなったカリスマしか設定できないという悲しい状況ですね〉と佐伯はいう。

 その3年後、05年に成立した対話が第2章「テロの社会学」である。そこではデモクラシーという枠を論じるにあたって、けっこうきっちりと佐伯と大澤の、思想(政治)的な振る舞いの違いが、浮かび上がっている。両者の言い分は、それぞれの単著『自由を考える』、『文明の内なる衝突』に詳しい、佐伯ならば「義」というアイデンティティへの保守的回帰で、大澤ならば「喜捨」を含め偶有性への積極的なコミットメントのことなのだが、ふたりとも基本的に、テロの正統性(レジティマシー)を否定しないというところから、話をはじめている。それを始点とし、テロに相対する側の正当性が、なにを根拠に置かなければならないのか、を探り当てようというわけである。そうして、じつは原理主義者を排除してゆくような、多文化主義のうちにある、承認に関わる欺瞞を、問題視するのであった。デモクラシーのなかに収まりきらない思想や、あらゆる承認から完全に疎外される人々が残ったとき、そこからテロリストが生まれうるのだ、と大澤はいい、佐伯は、レオ・シュトラウスの説明を借り、相対主義とは、要するに、他人に関心を持たないことであり、ある種のひきこもり的な心情として、自己を防衛することである、そうしたものとは違う多元主義をどうやって打ち立てるか、それが難しいとする。

 3度目の「ポストモダンの行方」は、本書に収録するために執り行われたもので、ここではもう九・一一におけるテロといった具体的な話はしていないのだが、そこから進んで、現状どのようにして我々が次のフェーズに進んでいくべきか、が模索されている。そうした点において、佐伯と大澤の意見は、やはり必ずしも一致するものではないけれども、結果からいえば、今やアメリカ主導のルールは限界に到達しているので、それに則っているだけでは駄目だ、では、さてどうしようか、という部分が要点になっているふうに思える。大澤は〈選択とか自由といったものの純粋性を保ちながら、この閉塞を克服する方法があるのではないか〉と考える、対して佐伯は〈一方にポストモダン状況があって、他方に原理主義が出てきてという二重性をどうするかが問題〉なのだが〈ただその場合、この二重性は別々に出てきて対立しているのではなく、一つのものから生み出された〉、そしてそれは〈近代主義の無条件な肯定と普遍化の帰結〉には違いなく、だから〈それに対する歯止めとしての保守主義〉というスタンスをとるというのである。〈ポストモダンは大きな物語を否定しているって言うけれども、ポストモダン自体が一つの物語を引きずっている〉という、佐伯のポストモダン批判は、わかりやすく、おもしろい。個人的には、東浩紀の「動物化」というタームを用いながら、環境管理型権力について論じた前半部、今日においては自由であることが抑圧であると感じられるという、いつもの大澤の見解に、佐伯がいくつかの鋭い指摘をあわせる、そこに、なるほど、と思うところもあった。

・その他大澤真幸に関する文章
 『思想のケミストリー』については→こちら
 『現実の向こう』については→こちら
 『帝国的ナショナリズム 日本とアメリカの変容』については→こちら
 『性愛と資本主義 増補新版』については→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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