ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年11月26日
 生活の重たさというものがある。生活の重たさというのは、ある一定の関係の重たさでもある。この小説は、小夜子と葵、ふたりの三十代半ばの女性を中心にして、進む。小夜子は主婦で一児の母である。葵は自分で会社を興し、それを経営している。あまり人付き合いのうまくない小夜子は、他の主婦との関わり合いに疲労を覚えている、そこから逃れるように、働き口を探しはじめる。勤め先は、なかなか見つからない。ようやく現われた雇い主が葵であった。葵は、高校のときに、ある悲しい別れを体験している。そのことの結果として、人と関わることに疲れてしまっている。小夜子と葵はお互い、立場や生きている環境こそ違うが、なにか共感しうる部分がある、そういう風に漠然と感じとっている。しかし、そういった共感は、最後の最後まで、口にされない。言われるのは、立場や環境の違いのほうである。そうすることで、彼女たちの生活の重たさは測られている。角田光代が書くのはいつも、ここではないどこかへ行こうとする、あるいは、どこにも行けない、というような感覚だ。この小説でも、それは反復されている。「ここ」とはどこかといえば、生活の重たさのある場所を指している。家族であれ、恋人であれ、友達であれ、制度化された関係は、抑圧のシステムとほぼ同義なのだ。この小説では、だから制度化される以前の、友愛とでもいうべきものが書かれようとしている。葵は、ここではないどこかへ行こうとする。小夜子は、どこにも行けない、と思う。そうしたふたりを繋ぐラインは、けっして目には見えない、言葉にはされない、目に見えるカタチになってしまってはいけないし、ありものの言葉でできた器のなかに入れられてしまってもいけない、ただただ漠然と感じとられるべきものなのである。

 角田光代『庭の桜、隣の犬』についての文章は→こちら
 角田光代『ピンク・バス』についての文章は→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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