ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年12月11日
 平川哲弘の『クローバー』において、長めにとられたエピソードは、まんま主人公が悪人をやっつけてめでたしめでたし、というプロットにまとめられる。たしかに、それは少年マンガ全般にオーソドックスなものであるのかもしれないが、ふつうテーマとでもすべきものが先んじ、たとえそうでなくとも、そこから起承転結式のプロットがつくられているふうに読める、あるいはテーマを掘り下げていくうちプロットが複雑化しているふうに読めるのに対し、『クローバー』の場合、じつに簡単に、まんま主人公が悪人をやっつけてめでたしめでたし、とでもいいたげなプロットに収まってしまうのは、テーマとでもすべきものを作品が持っていないからなのではないか。いや、もうすこし正確を期したい。たとえば、日常を舞台にした物語では、たいてい、友情や恋愛や青春といったものが、主題化され、焦点化され、いくつもの展開を支える重心となる。いわゆるヤンキー・マンガ系のスタイルが、仲間や恋人のため、主人公にケンカをさせたりするのも、結局のところ、こうした理念に従っているためだろう。だが、『クローバー』を読んでいると、あたかも、そうした理念が背景のほうへ後ろ回しになっているかのような印象を持つ。もちろん、ストーリーをちゃんと追えば、主人公のハヤトは、トモキやケンジなどの友人たちを大事に思い、彼らが傷つけられたので、または彼らに協力し、悪人をやっつけにいくことになっている。だが、そうした感情はさしあたり、悪人をやっつけにいくプロセスに奉仕するものでしかない。結果、まんま主人公が悪人をやっつけてめでたしめでたし、といったプロットに、いとも容易くまとめられてしまうのである。『クローバー』は、基本的に、不良少年を扱ってはいる。しかしながら、主人公たちの不良性というのは、『サザエさん』に出てくる磯野カツオが悪ガキだという意味での、それと大差ない。カツオが家族から愛される悪ガキである以上、思春期の葛藤や成長を望まれない存在であるのと同じく、『クローバー』の主人公たちも、いちばんのトラブル・メーカーで、天涯孤独に近しい立場のハヤトでさえ、ぐれているわけでもなく、トモキの母親などの年配女性から親しまれ、信頼されているように、大人の期待を決して裏切ることがない。この8巻に収められたエピソードでは、イチゴ(オッサン)という人物のために一肌脱いだハヤトが、その事情をいっさい問われることもなく、イチゴの母親から存分に感謝されている。茶番じゃないか、とまではいわないが、こうした屈託のなさが、個人的には(今のところの)作者の限界であると感じられる一方、テーマとでもすべきものに比重を置かないカジュアルさが逆に、ある種のつよみになっているのは間違いなく、その点については、いずれもうすこしくわしく考えてみたいところである。

 1話目について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
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