ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年12月09日
 女神の鬼 11 (11) (ヤングマガジンコミックス)

 とりあえず『KIPPO』の話からはじめたいと思う。ご存知のない方は、『KIIPPO』って何だよ、となるのかもしれないので、簡単に説明すると、『ヤングキング』08年18号より田中宏があたらしくスタートさせた連載(とはいえ、現在の段階では読み切りに近しい)のことである。物語は田中の過去作『BAD BOYS』や『グレアー』と同じ世界のその後の時代を舞台にしている。つまり、この『女神の鬼』との連なりを持っている。発表された順にするなら、『BAD BOYS』→『グレアー』→『女神の鬼』/『KIPPO』ということになるけれども、作中の時系列に直すなら、『女神の鬼』→『BAD BOYS』→『グレアー』→『KIPPO』ということになる(じつは『BAD BOYS』や『グレアー』にも歴史を遡って描かれたエピソードが含まれているが、それはひとまず置いておくとして)。『KIPPO』の主人公の桐木久司は、どうやら『BAD BOYS』の主人公の桐木司の息子らしい。こうして四作を通じ、登場人物や彼らの関係性に、かなりの部分の重なりが出来ている。しかし、ここで注視されなければならないのは、それらが単純な続きもののごとき、または次世代もののごとき続編ではない、との点だろう。それこそ、中上健次の小説『地の果て 至上の時』が『枯木灘』の続編であるように、さらには『奇蹟』が『千年の愉楽』の続編であるように、田中宏のマンガ群も、いうなればサーガとでもすべき内容のうちに、特殊な体系をつくりあげているのである。

 たしかに『グレアー』は『BAD BOYS』の続編でしかありえない。だが、それは必ずしも『BAD BOYS』で展開されたドラマを、繰り越し、更新、上書きしてはいない。むしろ、べつの枠組みが地盤をともにする物語のなかに生成される過程を追っている。ただ歴史の共有だけが両者を結びつけているにすぎない。この場合の歴史とは、作品内部の設定のことであり、作者の問題意識のことである。まだ不明瞭な部分のほうが多いが、おそらく『KIPPO』もそうだろう。同じく、『女神の鬼』もまた、『BAD BOYS』の、たんなる前日譚ではない。作中の、つまり物語世界の歴史的には、もっとも古い出来事を扱ってはいるものの、しかし物語外部の、つまり作者の歴史的には、もっとも新しい出来事を扱っている。『KIPPO』に描かれている家族たち(ファミリー)のシーンにしても、あれはもちろん、『グレアー』のラストからきていながらも、じつはそれ以上に、家族や日常の場面からだんだんと離れていく『女神の鬼』から並行的に、あるいは逆接的に、派生したものなのではないか(もっといえば『莫逆家族』のストーリーを踏まえてはいるのだろうが、ここでは置いておく)。そして各個においては、尋常ならざる深みがえぐりとられており、すくなくとも、こうした田中の試みは、かなり高度なレベルに達しているし、他の追随を許していない。この時代に珍しくワン・アンド・オンリーな作家だといえる。

 さて。本題は『女神の鬼』の11巻である。のちに「カラーボウルの乱」と噂されるボーリング場の死闘にも、いよいよ決着がつく。ここでのくだりも、読み応えに読みどころがすさまじく多く、どこから手をつけたらいいのか、悩むほど。内海を裏切ったケンエーの目論みも、広島ナイツのガネ(小金澤)が〈野望のために寄せ集めた仲間なんて所詮 いつかは壊れるモンじゃ‥‥!! ホンマの仲間っちゅーモンは…ほっといたって勝手に引き寄せられて集まって‥‥固く結ばれるモンじゃろォがぁ‥‥!!〉というとおり、今まさに敗れようとしている、そのとき警察による一斉検挙をくぐり抜け、広島中のチームがボーリング場に駆けつけ出していた。先に引いたガネのセリフも合わせ、ほんらいは敵対していたはずの廣島連合は五島が、内海に向かい、大声で呼びかける言葉が印象的である。〈内海ぃいいーッ!! 迎えに来たでぇええ――ッ!! いっしょに帰ろーやぁ――――――ッ!! 島んなんか行かんでも…ココに作りゃーえ――――‥‥みんなで帰ってから一から作り直そ――やぁ――――‥‥この時代に‥‥同じよーに跳ね上がった皆で 楽しく過ごせるよ――な……ワシらの国を…!!〉。こうした夢はしかし、ケンエーを庇った内海の悲劇によって、叶わない。そして〈検挙者78名中重軽傷者23名‥‥そして死亡者1名を出したこの夜は終わりを告げる‥‥‥‥‥‥〉のみだった。

 主人公のギッチョたちが、そこで経験しているのはたぶん、コミュニティの崩壊と新たな建設が、まるで卵が先か鶏が先かとでもいうように、表裏の関係にあるとしたら、どちらも人為的には選ぶことができない、という不幸だろう。そうした結果から見て、コミュニティに加えられなかった人間は、あるいはコミュニティから追放された人間は、孤独な鬼にでもなるか、さもなくば自らが王様になるしかない。これを受け、いよいよ物語は、鬼を集めているという、王様になれるという、鎖国島と呼ばれる謎めいた地に向かい、動き出す。

 鎖国島、本当なら内海もそこへ連れて行かれる予定だった。彼もまた鬼にしかなれなかった人間だからである。一連の騒動から廣島連合を引退した五島は、初代極楽鳥であり、警察官として後輩たちを見守る岩田(岩さん)に、〈ワシは岩さんみとーーな立派な道へは行けそーにない‥‥‥‥‥‥決めた‥‥っちゅーか 最初っから決まっとるんスよ‥‥きっと‥‥〉と告げ、こう話す。〈ワシらみとーなヤツらの中にもいろいろおって‥‥ヤンチャな時代を経て 立派な大人になれるタイプと‥‥ワシみとーに結局 ヤクザになってしまうタイプ‥‥‥‥‥‥そして……〉と。五島が、岩田と自分との対照によって述べているのは、あくまでもこの社会で生きていける可能性のこと、この世界のどこかに必ずや生きられる場所のある人間を指している。しかしながら〈‥‥‥‥‥‥そして……〉と続けて言おうとし、口ごもるように〈内海みとーに この世界じゃあ……生きる場所がないヤツらがおるんじゃ…!!〉という第三のタイプが、存在する。以前にも触れたが、この第三のタイプとは、つまり、反社会的な人間をいうのではない。没社会的もしくは脱社会的な人間の傾向にほかならない。没社会的もしくは脱社会的な人間の心理と行動は、もちろん、ヤンキー・マンガに固有のトピックではないだろう。今日の文学やサブ・カルチャーの表現全般に、しばしば見受けられるテーマでもある。

 だが田中宏の筆致は、他の作家たちをはるかに凌いでいると思う。それは、この世界を、この社会を、この時代を、決して平面に描いていないからだ。そう、『女神の鬼』の舞台が現代ではなく、昭和58年の日本であったことを思い出されたい。サーガとでもすべき、歴史の縦線を据えることで、立体的に、相対的に、普遍的に、映し出される個人の歪みをすくい取っているのである。ついに鎖国島の存在を知ってしまったギッチョたちが、どうしてもそこへ向かわなければならない、とでもいいたげな衝動に駆られるのは、世界そのものの欠陥をつよく感じ、生きている実感を得られなくなってしまったためだろう。もしかしたら世界に欠陥があると感じられるのは、彼ら自身が欠陥を抱えているせいなのかもしれない。5人で50人を相手にしなければならないという試練も、結局のところ、血気盛んな彼らを充たすことなく、ギッチョに〈なんやこりゃあッ……!! お!? こんなモンかぁあああッ‥‥‥‥!! 残っとるヤツは‥‥こんなモンしかおらんのかぁああッ たらんのじゃああ〉と叫ばせる。欠陥があると気づかれてしまった世界には、もはや彼らの欲望をなだめるだけの価値がない。

 ならば他人から鬼として見られ、見られたまま、死ぬか。いや、逆に自分のほうからこの世界を突き放すべく、ギッチョは〈ワシは……ワシの決めた法で動くで‥‥ココに居場所がないだけじゃない‥‥ワシは……王様になりに行くんじゃッ!!〉と言う、そしてそのために鎖国島行きを決意する。

 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック