ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年11月23日
 物語はひとつだけれども、全体は4つの章に分かれている。「父さんは今日で父さんを辞めようと思う」という、あまりにも退屈な出だしではじまる第1章は、まるごと詰まらない。第2章で小林ヨシコという人物が登場すると、まるでそのキャラクター自体がストーリーに魅力をもたらしたかのように、ぐっと引きつけられる。けれども、最後の章の5節目、190ページで、再びあまりにも退屈な出来事が起こると、途端にすべては詰まらなくなる。それでも読み終えると泣けてしまっている僕は、自分のことを、ああなんて駄目な人間なんだろう、と思う。
 致命的なほどの欠点は、やはり悪意を持った人物が誰ひとりとして現れないことだろう。いや「私」のクラスメイトたち、あれは悪意のカタマリではないか、だから、そこで感じる「私」の憂鬱にはリアリティがある、とはいえる。けれども、それは無邪気さの裏返しでしかなく、結局のところ、「私」はそれらといったんは敵対しながらも、けっして自分自身を損なうことなく、また他人の手を借りるという安易なやり方でもって素通りしてしまう、成長がないのである。「私」に成長をもたらすのは、ただひとり、「私」が中途まで明確な悪意を抱いていた小林ヨシコだけだ。言い換えれば、この小説においては「私」だけが悪意を宿している、「私」は他人には善意を求めるくせに、おそろしいほどに他人には善意を分け与えない。そして、その身勝手さは、いわゆる他者であるところの小林ヨシコによってのみ改善されるのである。この部分が肝であるはずなのに、物語は、安易に登場人物を殺し、そこにフォーカスを当ててゆく。その瞬間に、全部が全部、定型的なメロドラマに成り下がる。そのことに素直に反応して泣いてしまう僕という人間が、くだらない。
 たしかに吉本ばななの系譜に連なるような、小説における食べ物の効用という点においては、ほかの作家、たとえば生田紗代なんかよりもぜんぜん上手な書かれ方がされている(ここら辺は年齢の問題もあるのかもしれない)が、作品は凡庸なレベルに止まっている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書。
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徘徊読書
Excerpt: 本好きの徘徊、惹かれた理由。
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