ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年12月05日
 死が蠱惑的にもやさしく見えるのは、たとえば、どこにも逃げ場がないような苦しみのなか、ただそこだけがひらかれていると感じられるときである。しかし皮肉なことに、好むと好まざるにかかわらず、誰一人として死から逃れられる者はいない。生きるに悩み、死ぬに悩む。ぶれながら、揺れながら、感情は、命に寄り添う。兄の自殺をきっかけに、遺品整理業でアルバイトをはじめた主人公の岡崎裕行が、さまざまな経験を積むうち、それまで知らなかった現実に触れていく姿を、きたがわ翔の『デス・スウィーパー』は描くが、この4巻では、裕行が勤める「スウィーパーズ」の、他の社員たちの抱える葛藤がくわしくなっている。とくに、裕行のパートナーとでもいうべき三輪の素性があかされるくだりは、注目に値するだろう。

 たまたま訪れた仕事先が、恩人の自殺現場であったため、衝撃を受けた山本という社員は、立ち直れず、「スウィーパーズ」に退職願を出すことになる。それを見、〈怖くなったのか?〉と尋ねる三輪に、山本は〈自分の死についてどう考えてる?〉と問い返しながら〈オレは死ぬのがすごく怖い…〉と告げるのである。これに対し、〈どこに逃げ隠れしようとも 誰も死からのがれる事は出来ないんだ……〉と、三輪は言い放つのだった。ここでのやりとりは、どちらが正か否かを照らし合わせるものではない。たんに一つの現実が確認されているにすぎない。そう、つまり、死からは逃げるにも逃げようがない。そしてもちろん、その現実からも逃れることはできない。こうした前提が誰の人生にも含まれている。極端をいうなら、現実に追いつかれるのが早いか遅いかは、程度の差ですらある。
 
 それにしても急展開なのは、当の、死を間近に感じることをおそれ、「スウィーパーズ」を去ったはずの山本が、突然の事故死に遭ってしまうことだよね。読みようによっては、ちょっといきなりすぎるのではないかな、もうワン・クッション欲しかった気がしないでもない、と戸惑う具合だけれども、これを機に、生前の山本が自分の死体を託すと遺言していた宗教団体「バタフライ・メモリーズ」が物語に介入してくる。あるいは「バタフライ・メモリーズ」を物語に介入させるためには、あらかじめ山本の死が用意されなければならなかった。さまざまな遺体を事務的に処理してきた人間だったがゆえ、逆に〈蝶の鱗粉から特殊な防腐剤を作る技術を持っていて それによりまったく腐らせる事なく遺体を保存出来る〉という話の、都合の良さに乗ったとしても、不思議ではあるまい。

 そしてその「バタフライ・メモリーズ」と三輪のあいだに、じつは断ち切れない因縁のあることが、山本の死を経由し、明かされることとなるわけだが、重要なのは、もしも遺品整理業の反動として山本が「バタフライ・メモリーズ」を選んだとしたのであれば、「バタフライ・メモリーズ」の反動として三輪が遺品整理業である「スウィーパーズ」を選んだようにも思われる点であって、すでに挙げた二人のやりとりは、そのような相違の先取りにもなっている。〈オレは死ぬのがすごく怖い…この仕事を続けていても この人生が終わったらバクテリアに分解されて ただの土になってしまうという事実が今ひとつ分からない……〉と述べる山本に向かい、三輪は〈この世にある全てのものは終わりがあるから美しいんじゃないか〉と言ったのである。

 では、そうした有限のなかに、三輪が具体的にいったい何を見ている、見ようとしているのかが、(連載が続くのであれば)今後のキーを握っているのだと思われる。裕行とのあいだに築かれつつある一種の信頼も、おそらく、そこに含まれていくのではないか。作者の趣味や影響源からして、裕行と三輪の関係性は、少女マンガにおける同性同士のプラトニックなそれへのオマージュにも感じられる。いや何も、裕行と三輪のあいだに恋愛感情を無理やり見よ、といっているのではない。古典的な少女マンガにあっては、あるいは死こそが、尊いエモーションを照射するものであった。他の誰かへの、憐れみ、慈しみ、鎮魂が、孤独と幸福とを認識させる。同じく彼らはともに死という坐礁が決して遠からぬことからひりひりとする生の実感を得ているのである。

 1巻について→こちら

・その他きたがわ翔に関する文章
 『刑事が一匹』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
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