ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年12月02日
 文学界 2008年 12月号 [雑誌]

 今月号がもうちょっとしたら出る時分になって、先月のに掲載されていたぶんを取り上げようと思ったのは、じつをいうと一ヶ月ぐらい前に読んだときには、ここにきて医療や格差の問題に目配せしてきたのは、さすがにちょっと詰め込みすぎではないか、というのもあったし、物語のレベルで見るなら、メロドラマしいなところが以前にも増してつよまってき、さあどうしたもんだろう、というのもあったのが、間を置いてから読み返したら、もうすこしべつの角度で、ここでのくだりを捉まえられるような気がしたためである。『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』の主人公は、すでに述べたとおり、92年に村上龍が書いた『音楽の海岸』の主人公と、下の名前(だけ)が同じになっている。『音楽の海岸』は、その主人公であるケンジが、ながく病気を患い、入院している妹を見舞う場面で、幕を引く。おおざっぱにまとめるのであれば、ある事件で精神にダメージを負った人物が、肉体にダメージを持つ人物の言葉の、確信的な響きによって、(おそらくは)得るものがある。『心はあなたのもとに』の第十九回には、そこでの構図をまた違ったふうに上書きしている印象がある。医療ミスで自分の命を危うくされたのではないか、と病院に不審を抱く香奈子を、主人公の西崎(ケンジ)は見舞い、励まそうとする。だが、じっさいに目の当たりにした香奈子の様子に、彼は〈大変だったな、というわたしが用意した言葉は、まったく役に立たなかった。香奈子のことを何も理解できていない、ゴミのような言葉だったと思った〉のだった。ここにはたとえば、『音楽の海岸』で、体力はあるのに神経を参らせている主人公が、誰かに助けを求めようとしてもできない、そのさい〈こういう時には言葉が必要なんだけど、本当の言葉というのは、今こうやってオレが喋っているようなゴミみたいなもんじゃない〉と実感するのに、立場や状況はまったく違っているけれども、どこか相通ずるニュアンスを読み取れる。たいていのコミュニケーションは、固定された関係性を維持するために必要とされる。しかし、それに費やされていくうちに、言葉は、つるつると表面が磨かれるかわり、一種の切実さ、目的や意志と言い換えてもよいものを、曇らせてしまうのではないか。『心はあなたのもとに』の主人公は、〈西崎さん、西崎さん、とわたしの胸に顔を埋め、名前を繰り返し呼〉ぶ香奈子に対し、〈何か言わなければと思ったが言葉が出て来ない。もうだいじょうぶだとも言えない。だいじょうぶだという保証などどこにもないから、それは単なる気休めだ。死にそうになった人間に気休めが言えるわけがない。ずっとそぼにいるから、とも言えない。現実的にずっとそばにいられるわけがない〉ので、やはり、何も言えない。『音楽の海岸』で、クライアントから「(略)例えば、女が、ずっと泣き続けて、酒を飲んで、自分を失っていて、おかしくなった場合はどうだ。自分の大切な女が発狂寸前になって、包丁を、君にではなく、自分の手首に当てるような時だよ」と問われた主人公が「本当に死ぬ人は、例えその時、誰かに止められたとしても、いつか一人になった時に死ぬもんです、それに、人間が発狂したら、もうその人は別人になったと思わなければいけない、別人なわけだから、最初から、やり直さなくてはいけないんです」と答える箇所がある。『心はあなたのもとに』の香奈子は、決して狂人ではなく、ただ病人なだけだが、西崎が何も言えないのは、たぶん彼が、同じ人間とべつの関係性をやり直すための言葉を持っていないからなのだと思う。そしてすでにアナウンスされているように、香奈子はやがて亡くなってしまう。当然、死者とも関係性をやり直すことはできない。こうした無力と寂しさをにおわせる連載の第一回目から『心はあなたのもとに』の物語ははじまっていた。

 第十七回について→こちら
 第十一回について→こちら
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(08年)
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