ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年11月30日
 巨星董卓墜つ。どんな悪人でも今際には贖罪のときが訪れる、というのは武論尊(史村翔)原作のマンガにとっての黄金律であり、董卓もその例にもれない。また、愛に飢え、渇望するがため狂気に走り、蛮行のかぎりを尽くした結果、討伐される、というのもそうだ。皇帝以上の権力を得ながらも、失われし最愛のものへの残念を断ち切れず、〈……苦しかった………………“鬼畜”になれば、その苦しさから逃れられると思った……〉の〈だが、葉春は消えてはくれぬ……いくらこの手を血で汚そうと、逃れられぬの〉で、董卓は自らが呂布に斬られて死ぬことを受け入れる。『覇―LORD―』の14巻である。三国志(または三国志演義)的にというよりも、あくまでも“超”三国志である『覇―LORD―』的に、なぜ董卓が討たれなければならなかったのか。おそらく、彼が私怨の人であったからだろう。他方、一万の兵士を犠牲にし、敗北した劉備は、自分が何のために生き、戦うのかを見失ってしまう。それは董卓の場合とは逆に、私怨では起つことのできぬ弱さでもあり、強さでもある。こうした二者の対照において、やはり惨めなのは、董卓のほうだと思われる。その惨めさを自覚しながら、結局のところ拭いきることができなかったので、最後の最後に憐憫を誘う。董卓は空虚な自分を私怨で埋めるよりほかなかった。しかし埋まらなかった。このことを踏まえたとき、またべつの箇所で印象的になってくるのは、劉備を名乗る前の燎宇の教えを受け継いだ黄布兵の青峰を前にし、曹操が〈この曹操(オレ)の“戦”――己の腹を膨らませるためではない!‥‥〉と断言する言葉だろう。これを聞き、青峰が曹操を認めるのは、そこに私怨や利己の否定が響いているからにほかならない。むろん曹操の本意は、燎宇が青峰に説いた〈民・百姓の“明日”のため!!〉という教えとは、必ずしも一致しないに違いない。しかし、すくなくとも董卓の生き方に対するアンチテーゼにはなっているからこそ、物語のレベルにおいて、快進撃を続ける権利が与えられている。たぶん、それに対するさらなるアンチテーゼとして劉備の〈何万、何十万人だろうが その将兵の命――オレが全て背負ってやる!〉という覚悟と復活がくるわけだけれども、その前に、である。ぼちぼち呂布のターンに入る頃合いかな。愛を知ったことで、じょじょに変わりつつある呂布の造形もまた、董卓と同じく、武論尊の原作にお馴染みのものだといえる。壮絶なラストを迎えるのは火を見るよりも明らかだが、せめてそれまでは劉備や曹操を向こうに回し、最高潮にかっこうのよいところを見せていただきたく。

 13巻について→こちら
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posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
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