ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年11月20日
 もしかしたら80年代から90年代初頭にかけてのヤンキー・マンガは戦後に対する解体の表現だったと思えなくもない。それ以前の不良マンガの登場人物たちのバックに、右翼の大物や政治家、財界人がうろうろしていたのとは違い、歴史や血の繋がりとは断絶された場所で、不良少年たちは、自分たちだけのパラダイスでありユートピアを謳歌していたのである。現在の郊外がそうであるように、中途半端に終わったアメリナイズの完成形ともとれるその姿を指し、世間はヤンキーと呼んだのではなかろうか。そうしたヤンキー・マンガのフォーマットに、ふたたび歴史と血の繋がりを導入しようとしている作家の一人が、佐木飛朗斗だといえる。彼が、桑原真也に原作を提供した『R-16』にそのことは顕著であった以上、同じく所十三に作画を任せた『疾風伝説 特攻の拓』の枠組みに翻るていで、『R-16』のテーマを載せ替え、まだ若い東直輝に渡したような『外天の夏』もまた、歴史と血の繋がりのめぐるストーリーになっている。まさか〈バッカ どこの国のマネでもねー族ぁこの国の伝統文化だっつーの 日章カラーに特攻服は歴史上の事実だぜ〉という登場人物の与太を真に受けるわけではないけれども、しかしまったくの冗談で済ますこともできない。すくなくとも佐木は、本気半分の力を込め、そう言わせているはずだということは、ストーリーを追うことによって、確認される。札付きのワルが集う聖蘭高校に編入してきた主人公の夏は、そこで知り合った伊織たちから、亡くなった兄の冬がじつは横浜の暴走族である外天の初代であったことを聞かされる。さらには〈冬さんは何世代にも渡って続いてきた横浜をとり巻く族の世界の戦争を 全て終結させるつもりだったんだ…〉という夢が叶わず、外天の二代目をつとめる伊織が〈でも 冬さんは逝っちゃったし…戦争終わらせんなら やっぱ…ぜんぶ潰すっかないじゃん? 別に…オレが…死んじゃっても構わないから〉と決意しているのを知るのであった。こうした、少年たちが命をかけてまで臨まなければならない事態を、アンバランスな価値観に巻き込まれていく夏の不運なさまを通じ、ときにはユーモアを交えながら描きつつ、その少年たちの背景には、血の繋がりが、生々しく、憎しみの連鎖反応を引き起こし、彼らを掴まえ、きつく縛る苦悩が横たわる。伊織の幼馴染み、亜里沙が置かれている複雑な家庭環境も、その一つだろう。魍魎を率いる和國は、彼女の父違いの兄である。彼女の父親は、巻島グループの総帥であり、巨大な資本は政界をも左右する。そして和國は、その男に妻を奪われた父親の弱さを憎しみ、〈“賀来の家”の誇りと名誉はオレが取り戻す!! オレは街を恐怖で支配してやる…!〉と、力のみを頼り、自らの血統を訴える。ここには権力が、下へ下へ、個人へ個人へ、くだるにつれ、暴力に還元されていく構図が生じている。登場人物たちは、血の繋がりから、知らずのうち、歴史を背負わされ、結果、ぐれているのだ。たぶん和國は、まあ魍魎というチームからしてそうなのだが、『疾風伝説 特攻の拓』の武丸のイメージを受け継いでいる。しかし武丸が大企業の御曹司であったのとは違い、そこに『R-16』の、貧しく無力であるがゆえに不良にならざるをえなかった少年たちのイメージが入り込んできている。そのような意味で『外天の夏』の成り立ち自体を象徴する人物になっているといえる。それにしても、亜里沙の双子の妹である亜芽沙が切ない。足の不自由な彼女が、夏に希望を見るのは、冬の弟だからというのもあるだろうし、何よりも純粋であり、自由であるふうにも思えるからだろう。この、夏に託された男の子の像が、ちょうど80年代から90年代初頭にかけてのヤンキー・マンガの主人公たち、それこそ『疾風伝説 特攻の拓』の拓をも含められるイメージとだぶったりするのは、彼らがどれだけ歴史や血の繋がりから解放されていたかを考えたとき、あんがいおおきな意味を持っている。

 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』(漫画・山田秋太郎)について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
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