ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年11月20日
 もしも、音楽によって狂わされてしまった人間がいるなら、それを調律し直すことができるのも、やはり、音楽だけなのかもしれない。おそらくはハロルド作石の『BECK』以降といってしまってよいのだろうが、ここ最近、音楽マンガもしくはロック・マンガあるいはバンド・マンガと括ることのできるような作品が、やたら増えた。しかし、リアリティ重視とでも言いたいのか、まあね、等身大といえば聞こえはいいのだけれども、しょぼいしせこいサークル・ゲームに終始しているのがほとんどなのは、ああ、ロックやパンクが他人と同じであることを嫌う時代はもう終わっていたんだな、と、あらためて思わせる。だが、佐木飛朗斗だけは、違うね、違う、スケールが違う。山田秋太郎に原作を託した『爆麗音(バクレイオン)』を読むと、たしかにそう実感されるのであった。この3巻は、「デモンズナイト」と呼ばれるイベントの出場権を得るため、コンテストに参加したバンドたちの演奏シーンに、おおよそを占められている。主人公の歩夢と彼がギターをつとめるヒューマンガンズの出番前、顕率いるチーマー系暴走族(すごいカテゴリーだな)でもある泥眼(でいがん)の、巨大な狂気を孕んだ演奏は、無意識でモッシュピットをつくらせるほど観客を魅了してしまう。はたしてヒューマンガンズのパフォーマンスは、泥眼のそれを凌ぐことができるのか。やがて歩夢のギター・ソロが響き渡ってもなお、調子のあがらないステージに、フロアにいた烈は〈こんなのは“オマエの音楽”じゃねーだろ!? 歩夢ゥ!!〉と、苛立った表情を見せる。歩夢の音色(トーン)が炸裂するのを受け止めるのに、ヒューマンガンズのリズム隊は適していないのである。自分を出せば制御不能になり、バンドに合わせれば自分が封じ込まれる。このようなジレンマが、歩夢のあがく姿に描き出されている。一方、音楽とは何よりも自由であるべきか、いや逆に不自由であるからこそ、他との調和がとれ、完璧になれるのか。同様のテーマが、ザルツブルグのオーケストラでモーツァルトに挑むピアニスト印南の苦悩を通じ、展開される。権威のみが、神のつくりし記録(レコード)と信じて疑わないジークフリートガンディーニの指揮のもと、即興演奏を試すことで、印南は〈権威を滅ぼしてボク自身が権威に成り変わってみせる! そうウォルフガングアマデウスモーツァルトの様に…〉証明してみせようというのである。それぞれべつのステージで繰り広げられる二つのクライマックスが、場所を越えて交錯するさまが、演奏の描写をスリリングに盛り上げている。複数の出来事がパラレルに進行するのは、佐木の原作が得意とするパターンであるけれども、正直なところ、時系列が整理されているとは見なしがたく、ぐちゃぐちゃにこんがらがっている。それはもちろん、作品の欠点となりうる。が、しかし、肯定的に述べるのであれば、佐木が導き出そうとしているのが、すべての瞬間と空間とが同時に生起する宇宙の存在である以上、それは当然だという気もしてくる。この『爆麗音』においては、音楽こそが、神へ、宇宙へ、ひらかれてゆく唯一の回路なのだろう。したがってそれは、関わった人間の運命を、容易くも残酷に左右する。平凡な母子家庭に生まれたはずの歩夢の、意外なルーツがあかされるのも、この巻だ。そして、歩夢の妹の樹里絵は、絶対音感を持っているがために母親から過剰なプレッシャーをかけられ、ついには音楽と神を呪詛する。〈そうだ…祈ろう…どうか“音楽の神様”…この地上から消し去ってください…あらゆる音楽を〉と。純粋な憎しみをヴァイオリンの調べにのせはじめるのであった。

 1巻・2巻について→こちら

 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『外天の夏』(漫画・東直輝)1巻について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他山田秋太郎に関する文章
 『解錠ジャンキー・ロック』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
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