ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年11月19日
 生まれ来る子供たちのために (講談社ノベルス ウF- 18)

 八木剛士、そして松浦純菜、社会から忌まれ、疎まれ、迫害されてきたがゆえに出会ってしまった二人の、悲しい恋の物語が、ここで終わる。あれ、そんな物語だったか、いや、そんな物語だったのだ、たぶん、たぶん、たぶん。だって、ちゃんと切ない結末になってるじゃないか。とはいえ、しかし、冒頭に付せられたエピグラフが、あの安藤直樹(作者の初期作に出てくるキチガイ。キチガイっていうのはさすがに言い過ぎかい)であったことから予想できたとおり、ああ、まあ、それ以前にこれまでの展開からしてもそうなのだが、身も蓋もないぐらい、負の雰囲気に充ち満ちた作品になっているのが、ついにシリーズも最終巻を迎えた浦賀和宏の『生まれ来る子供たちのために But we are not a mistake』である。うん。こいつはすばらしくひでえや。

 自らを拒絶されたという感情が暴走し、剛士は純菜を深く傷つけてしまう。しかし剛士もまた、彼に対して複雑な思いを抱く南部の手により、もっとも大切にしていたはずのものに深い傷をつけられてしまうのであった。こうして三者の、かつては親密にもなりかけていた関係は崩壊し、憎しみのめぐりめぐる、血なまぐさく、たいへん醜い復讐劇が繰り広げられていく。一方、偽王とIR2、ハルマゲドン、天国移送、すべての計画は最後の段階に入り、地球人類に終わりのときが訪れる。

 もしかしたらやるんじゃないかやるんじゃないか、と思ってはいたが、P224、やっぱりやりやがった。過去作でいうなら『リゲル』級のインパクトをかましやがった。もうほんとうに、この作家は、良くも悪くも、期待を裏切らねえな。いずれにせよ、その瞬間を境に、アニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』の頃から近年では遠藤浩輝のマンガ『EDEN』まで脈々と続く、ビオスとゾーエーに引き裂かれる主観の、映し鏡であるような物語へと作品はシフトするのであった。もちろん、それは初期の小説(それこそ安藤直樹が登場ずるシリーズ)にも見られた傾向であり、だからある意味で、原点回帰ともとれるくだりだろう。しかし、ここにきてこのシリーズが、右翼や左翼がどうのだとか憲法九条がどうのだとか、執拗に繰り返し続けていた問答や、あるいはセックスしたいセックスしたいセックスしたい不細工な人間でもセックスしたいんだと、執拗に繰り返していた欲求の高まりが、ビオスとゾーエーの二極化をよりつよく推し進めていることに着目されたい。この場合のビオスとは、せめて人間らしく、といえる。

 もちろん、物語のなかでは、ビオスやゾーエーと述べられてはいないけれども、おそらく、そのように置き換えられる意識のありようは、二重三重の構造をもって描かれている。精神と肉体の対比として、自然と政治の対比として、生命とヒエラルキーの対比として、選ばれなかった側と選ばれた側の対比として。そしてそういった相剋もしくは選択からは決して逃れられない者の姿として剛士は、世界が終わったあとの世界に、一人取り残される。

 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら

・その他浦賀和宏に関する文章
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(08年)
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