ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年11月11日
 生きている者に対して「劣化」と評することができるというのは、とても寂しい感性である。しかし結局のところ、その寂しさに気づけないので「劣化」という語を用いることに屈託がなくなる。進化論だか優生学だかの勝者にでもなったつもりかよ。そのような、ある意味で、独我論じみた判断を絶対とはしない反証が、所十三の『D-ZOIC』には込められている。そもそも『『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』としてはじまった物語は、続編である『D-ZOIC』に入り、冥王マルタ率いる“在る可から不る者”たちの侵攻を、地上に生きる人間にとっての驚異として描く。凶悪で残忍な擬人(ヒトモドキ)や擬竜(リュウモドキ)で構成される軍の台頭が、主人公のユタをめぐるパートのみならず、作品の舞台そのものである五王国全域に混乱をもたらす。そしてこの2巻においては、その“在る可から不る者”であるはずの擬人(ヒトモドキ)もまた、自らの身に起こる異常を「劣化」と忌み、蔑み、呪う、悲しき宿痾を背負っていることが、暗示されている。“鍵”と呼ばれ、文字どおり、各国の要人からキー・パーソン的な注目を集めるユタに、冥王国軍の手の者が迫る。擬竜(リュウモドキ)をけしかけ、ユタを襲う巨漢のゴッロは、かつてはフリギオ公を名乗り、数々の武勲をあげた将校であった。だが今やその面影は失われつつある。〈我が身の“劣化”は面相だけにとどまらず 精神にも…〉影響を及ぼし、〈時には“ティタノイデス”の誇りさえ忘れることも有様〉であり、同様の宿痾に苦しむ同胞リーク公を前に〈あなたはまだ間に合うやもしれぬ 彼の地の扉を開き 神の御業 手に入らば その身の“劣化”を防ぐことも…〉と誓いを立て、〈降臨の地 到達は陛下だけでなく 我等にとっても悲願なれば…〉という秘められた想いを語る。おそらく、冥王マルタがあまり感情移入の対象とならないのと同じように、ゴッロを、ひいては冥王国軍を、“在る可から不る者”の存在自体を、まるっきりの悪と見なし、救いがたく表すことも可能だっただろう。いや、むしろ、そちらのほうが善悪の構図が単純化され、回りくどくなく、今後の展開が派手になったかもしれない。だが作者はそうしなかった。同情と共感の余地を与えている。もちろん、そのような内面重視型といおうか、わざわざ悪を形成するのに複雑な回路までをも取り込もうとするつくりは、今や少年マンガのセオリーだといえる。こうしたとき『D-ZOIC』で顧みられているのは、たとえばゴッロとともに恐竜の群れに取り囲まれたユタが〈この森は…彼らのものだ ここではヒトもヒトモドキも“在る可から不る者”だってのに…〉と悟るとおり、敵対関係とは立場や権利の違いでしかない、ということなのだと思う。ゴッロに捕らえられたユタを救おうとするパウルスと、ほんらいはライヴァル関係にある串刺し公フリードが共闘するさまは、恐竜の上を剣振り回し、たいへんかっこうよい。が、しかし、そこに立ち現れているのも立場や権利の違いを超えて結びついた気概なのである。

・『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
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