ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年11月10日
 作品は『ナンバデッドエンド』とタイトルを変え、仕切り直し、現在も連載が続いているけれども、『ナンバMG5』の分のラストはこの18巻になっている。では、いったんのピリオドがどこで打たれているのか、確認しておきたいのは、それが物語の概要と深く関わっているからである。家庭では全国制覇を目指すヤンキーとして、学校へ行けばどこにでもいるようなシャバ僧として、二重生活を送っていた剛の変化が、高校2年の夏休み、あわや兄の猛に気づかれてしまう、そうした危機が、ここでのターニング・ポイントになっている。高校2年の夏休みとは、高校3年間をモラトリアム最後のスパンとした場合、ちょうど折り返しの地点になっている。ラストのエピソードにおいて剛は〈あと1年半だ……あと1年半ウソでしのげば 誰も傷つかねぇですむ〉と決心し、〈楽しい時ってのは あっという間に終わっちまうんだよな まるで花火みてぇに……〉と思う。言うまでもなくこれは、終わらない夏休み・イコール・終わらないモラトリアムなどない、という認識であろう。高校生活のなかで見られる夢を生きようとすることが『ナンバMG5』であったなら、今しがた引いた剛の言葉は、その夢にも終わりは必ずややって来ることの予感であり、おそらく、その予感が『ナンバデッドエンド』の内容に重なってくる。

 無限化していく日常と非日常の問題は、サブ・カルチャーの批評などで、よく遡上にあげられるものの一つではないだろうか。たとえば、そのような視線を用い、劇場版アニメーション『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』やテレビ・アニメーション『涼宮ハルヒの憂鬱』を分析したものを、すくなからず見かけることがある。しかし同様の問題は、通学路の往復がワン・パターンにループ化されることが作品の構造を担っていた『BE-BOP-HIGHSCHOOL』 が暗示的であったとおり、ヤンキー・マンガにとっても重要なモチーフにほかならない。あるいは、やはり永遠にループするはずだったストーリーの『工業哀歌バレーボーイズ』が、高校生活・イコール・モラトリアムの終焉とともに『好色哀歌元バレーボーイズ』とタイトルを変えたとたん、それまで止まっていた時間がまさに堰を切ったかのごとく、登場人物たちの運命を翻弄するさまは、もっと真剣に論じられてしかるべきだと思われる。しかし、サブ・カルチャーの批評のシーンにおいて、なぜかそうなっていかないのは、いっこうにモラトリアムが終わってくれないことを憂鬱だとする一方で、じっさいにモラトリアムが終わってしまうことほどの恐怖もなかなかなく、それを真剣に検討することは残酷な現実と向き合うことでもあるので、なるほど、モラトリアムを余すことなく展開したうえで終わらせてしまった作品から、逃げたくなる気持ちもわかる。と、もちろん、これは余談である。が、しかし、すくなくとも今日、山本隆一郎の『サムライソルジャー』や、そしてこの小沢としおの『ナンバMG5』が、そこから逃げず、シリアスに相対し、だからこそきわめてすぐれた表現たりえている事実だけは述べておきたい。

 さらに余談を加えると、小沢とは違うセンの、というか、高橋ヒロシ以降の、というか、要するに高橋ヒロシのフォロワー群が、夏休みの存在を強調的に描かない、描けなくなっているのは、高校生活そのものを現実の世界を向こうに回した異界にしてしまっているからで、そうしたモラトリアムの切り取り方を指し、今ふうに閉鎖空間と置き換えてもよいよ。

 それにしても、どうして剛にとって、しごく一般的な高校生活を送る、たかだかその程度のことが試練となってくるのか。ここには愛する家族の期待に応えなければならないとするプレッシャーが作用している。筋金入りのヤンキー一家に生まれた剛が、両親や兄から全国制覇を望まれるのは、エリートの家庭に生まれた子供がエリートでなければならないとつよく期待されることのパロディ化である。いや、たとえ立派な血筋でなくとも、家族を裏切ってはならない、このような卑近であるがゆえに過剰な抑圧は、たいへん普遍的なテーマだといえるだろう。剛の自意識があまりにも逞しく分別の行き届いているため、もしくは作者のコメディを成り立たせるセンスが秀逸であるため、いっけんそうは感じられないけれど、家族の前で本音をさらせないのは、結局のところ、自分に期待されている自分を演じなければならないことを、重く見ているためだ。そしてそのことは、妹である吟子との対照によって、さらにわかりやすく、強調されている。剛と吟子に対する両親の態度は、まさしく男女の性差において、きっちりと線引きされている。これは、ある意味で難破家の家風が、リベラルではなく、保守的な性質であることを示しており、17巻で、教師の長谷川が、剛や吟子の母親であるナオミと衝突したのも、じつは無意識のうちに難破家の考え方が、子供の意志と自立とを否定しているからにほかならない。

 ケンカのスペクタクルとチャーミングなギャグ、たしかにそれが『ナンバMG5』のフックであり、猛の圧倒的な破壊力は最高潮に燃えるし、ビーチで辱めを受ける伍代と大丸の可愛そうなところはげらげら笑える。だが本質的なテーマは、モラトリアムの渦中にあって子供が、自分の意志で、さまざまな決定をくだし、大人になっていくことなのだと、夏休みの終わり、剛の黄昏にはあらわされている。

 17巻について→こちら 
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 1話目について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
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