ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年12月20日
 人はもう、なんらかの帰属先(組織、団体、企業etc)を考慮に入れないと、善と悪の線引きなどできないのであった。もちろん、昔からそうだったのかもしれない側面はあるのだろうが、それらの上位に道徳とか倫理とか、まあ大きな物語でもイデオロギーでもいいのだけれども、とにかくア・プリオリに正義があるのではなくて、あくまでも帰属先の利益または体裁を前提としたうえでの結果論でしか、善や悪は計れなくなっている、ということだ。桂正和『ZETMAN』の第6巻において、メイン・キャラクターのふたり、高雅(コウガ)とジンが放り込まれるのは、たとえば、そのような場所である。絶体絶命のピンチから九死に一生を得たコウガであったが、しかし、その心と体には深く深い傷が刻み込まれてしまった。ダメージの癒えない彼の、その与り知らぬところで、彼を巻き込んだ巨大なプロジェクトが始動しようとしていた。一方、地下に拘束されたジンは、その身体の秘密を、対面するコウガの祖父からついに聞かされることとなる。2年後、ジンはゴーストタウンに、いた。作者がアメコミのヒーローものや、とくに『バットマン』のファンであることは知られており、『ZETMAN』にもその影響が顕著であるのだけれども、組織との付き合い方みたいなものは、やっぱり日本のヒーローものの延長線上にあると思う。というのも、『バットマン』にしてみたら、主人公にとって企業というのは手足のようなものであるのに対して、当面『ZETMAN』は、その企業の下部に主人公たちは置かれているわけだから。そして、そういったヒエラルキー的な構造は、『仮面ライダー』あたりを例に出してみるとわかりやすい。初期の『仮面ライダー』にしたって、あくまでも主人公は組織に改造された人間だったのであって、とくに『BLACK』などは、そうした組織に対する反動が、正義の側に立つモチベーションになっている。また『クウガ』からの新シリーズにしても、警察との連携が尊重されたり、『アギト』などは仮面ライダーのひとりがすでに警察に仕える身であるし、それら以外にもほとんどのケースで、ライダーたちは何かしら組織の一部でしかなかったりするのだ。また、そういった傾向はじょじょに強まっている感じもする。そのあたりは、時代性の、無意識的な反映なのかもしれない。が、そこから妄想して、今日においてサブ・カルチャーにあらわれるヒーローの像というのは、もしかすると自衛隊のメタファーとして機能してしまっているのではないか、などといえそうな気もするのである。と、なんか、うまく考えがまとまっていないので、適当に過ぎるし、しっちゃかめっちゃかな文章になった。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ。
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