ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年11月20日
 新書。文章などで自分のことを「私」ではなくて「ぼく」として記さないと据わりが悪いというとこからはじまって、それはいつからか大人と子供という間に明確な区切りがなくなったことなのではないかという点を経て、50年代以降のアメリカン・カルチャー、それが輸入されてからの日本のユース・カルチャーを語り、現在ヤングアダルト(ほぼライト・ノベルと同義)と呼ばれる小説群が、なぜ多くに読まれているのかについて言及されている。語り書きのせいだろう、ロジックとしては、ところどころに難所はあるが、全体の流れとしては、おもしろい。ただ、あくまでも、ここに書かれていることは金原瑞人の主観あるいは彼の世代の見方であるということだけは踏まえなければならない。

 この本の説得力がどこからやってきているか、を考えると以前も引いた気がするが、栗原裕一郎が『腐っても「文学」!?』というムックのなかで、上遠野浩平『ブギーポップ』シリーズについて書いた文章を持ち出すと、わかりやすい。

 しかし、送り手と受け手の共有しているバックボーン、ゲームやアニメ、マンガといった文化が「教養」扱いされはじめ、それらを養分に育った第一世代が四〇を越えた現在、一般向けのエンターテイメントを正道に据え、ヤングアダルトをガキ向けと退ける態度を正当化していた根拠は薄くなりつつある。

 栗原裕一郎「『ブギーポップは笑わない』にみる、子供にとっての“リアルな物語”」


 栗原がいう第一世代よりも年齢的には若干上になるのかもしれないが、金原自身が、そういった世代に対して共感を抱き、どちらかといえば肯定している旨は本書の大部分で表明されている。それが金原も含めて自分のことを「ぼく」という大人たちである。その彼(彼ら)が、どのようにアメリカを起源とするサブ・カルチャーに触れてきたかが、大きな流れの核となっている。

 そこで出てくるのがサブ・カルチャー=ユース・カルチャー=カウンター・カルチャーという見方であり、話の多くを占めるのがアメリカのポップ・ミュージック=ロック・ミュージックについてである。正直なところ、ここいら辺は林洋子『ロック・ミュージックとアメリカ』という本のほうが詳しいので、(もしかしたら絶版かもしれないけれど絶版ですが)そちらを参考に読んでおくことを薦めたい。

 さて。個人的にはこれを読んで、90年代は抜きで(ナシにして)現代が語られている、そういう感じがした。この本のなかで、金原は、スーザン・ヒントンの『アウトサイダーズ』をヤングアダルトの原典として挙げる。そして日本の80年代半ばを、アメリカの60年代末になぞらえることで、新井素子や吉本ばななの出現が、日本にとっての『アウトサイダーズ』の登場にあたり、乙一などの後のヤングアダルト作家へと繋がってゆくという感じにまとめるのだけれども、金原がいうように現在ではアメリカと日本でヤングアダルトなるジャンルが差異なく存在していることを考えると、その辺りの実情には、やはり90年代が大きく関与しているということになる。90年代はアメリカにとっても日本にとっても、おそらくは同じように90年代だったのである。
 金原は、90年代にはなにもなかった、のほぼ一言で済ませている。その「なにもないこと」こそが重要なのに、というのが僕の見方だ。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック