ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年10月20日
 サムライソルジャー 2 (2) (ヤングジャンプコミックス)

 おい、そこのあんた、踊るのは勝手なんだが、他の人間の邪魔になるから、もっとハジっこのほうでやってくんねえかな。せっかく楽しんでいるとき、こう言われちゃうほど寂しいこともないよね。モラトリアムを祭りとして描くこと、しかしその、ハレの場は無条件に生じ、与えられるものではなく、そしてまた、賑々しさの渦中で、余計な疎外感を覚えてしまえば、すべての魔法は解けてしまう。もちろんのとおり、永遠に続く祭りなど、どこにも、存在しない。2巻に入り、たぶん週刊連載のペースを掴みはじめ、この作者、山本隆一郎らしさが、よくよく出てきたな、と思われる『サムライソルジャー』だけれど、それというのはつまり、かつて『GOLD』のなかに描かれたテーマを、ある意味で、受け継ぎ、ある意味で、深めようとしているかのような印象を受けるためである。

 たとえば、作中人物の一人で、武闘派集団の「マーダーコープ」を率いる吉田が、〈華のねー不良(ガキ)が輝くにはよ ヒーローから無理やりライト奪うしかねーンだわ〉と述べる台詞は、なにか、象徴的なニュアンスを含んでいる。おそらく、彼にそう言わせているのは、主役には程遠いバッド・ルッキンな顔つきに対するコンプレックスであり、主役を引きずり落とそうと頼れるだけの腕力が自分にはあるとの信頼だろう。だが、その二つは所詮、主役になりたい誰しもが主役になれるわけではない、という諦念上における同質の強ばりでしかない。これは言うまでもなく、『GOLD』の、前半で、主人公を盛り立てていこうとする不良少年たちの、そして後半で、主人公の兄を裏切っていくギャングたちの、その闘争のうちにあらわされていた心情の、変奏にあたる。

 さらにいうなら、『サムライソルジャー』というマンガにあって、本来ならば主人公に位置する藤村新太郎が、なかなか本筋に絡んでこず、むしろワキの場所に置かれ続けているのは、すでにモラトリアムの外へと出てしまった人間だからであって、ふたたび彼を祭りの内部に引き戻そうとする力が、言い換えるなら、主役に相応しい人間を欲するがゆえの必然が、さまざまな局面で働き、全体的な物語がつくられているわけだけれども、そんな新太郎に向かい、「ナダレ」の元ナンバー2であり、敗北と挫折を知った市川が〈あんた…ちょっと人間が出来すぎてやしねーか そのうえバカみてーに強いときてる ずりーよ…あんたみてーな人間には自然と仲間が集まるんだろーな〉と述べているのも、やがて彼が「ZERO」に対抗すべく、「渋谷連合」を立ち上げようとし、〈『渋谷連合』は『ZERO』を倒すまでの祭りだと思ってくれりゃいい ただ…その御輿には俺を乗せてくれ 『ZERO』に『ナダレ』とられて 俺の居場所はなくなったんだ…あと戻りできねーぶん ド派手な花火あげてみせるからよ!! 終わったらそんな御輿うっちゃってくれてかまわねーから!!〉と刹那に生きることを選ぶのを考えると、じつに皮肉的な運命を暗示している。

 こうして、渋谷を舞台にした抗争は、新太郎の親友であった桐生と「ZERO」とを中心に激化していくわけだが、はたして桐生の狙いは何なのか。彼は自分に従う人間を集め、次のように言う。〈命令とか男とか…オメーらいつまでダセーことコイてんのよ 嫌なら渋谷から出てきゃいーじゃねーか でも渋谷で遊んでたいから わけわかんねー理由つけやがる 今 ここに49人いる そんで49人とも1年後は何してんの? 不良(ガキ)やめて肉体労働(ゲンバ)か? それともヤクザごっこやってのたれ死ぬの? スカウト・AVなんかの企業舎弟でもやる? みんな俺についてこい…そうすりゃ ずっと渋谷の不良のままでいさせてやるからよ〉と、まさしく宣誓する。これはもしかすると、『サムライソルジャー』に、アウトサイダーが描かれ、モラトリアムが描かれていることの意義を代弁しているのではないか、あるいは、モラトリアムの戯れを扱う、たいていのフィクションに対する挑戦のようにも思われてくる。

 子供のままでいたい、子供のままじゃいられない、そうしたジレンマの仮託されたフィクションは、しばし現実を、もっと強調すれば、社会を遠巻きに眺める視線でしかなくなってしまう。『サムライソルジャー』においての渋谷は、ほとんど匿名的な、もしくは郊外化されつつある都会の総称でしかない。しかし完全に郊外の匿名性に埋没しているわけではない、ぎりぎりのラインにより、かろうじて渋谷という固有名が与えられているにすぎない。そして、そのようなぎりぎりのラインは、モラトリアムの最中とモラトリアムの終焉との分水嶺をも、代替している。だからこそ、そこで遊ぶ不良(ガキ)たちは、桐生が言うとおり〈嫌なら渋谷から出てきゃいーじゃねーか でも渋谷で遊んでたいから わけわかんねー理由つけやがる〉のだし、〈1年後は何してんの? 不良やめて肉体労働か? それともヤクザごっこやってのたれ死ぬの? スカウト・AVなんかの企業舎弟でもやる?〉という問いかけに、心動かされる。モラトリアムの喧噪だけが、自らが匿名的な存在であり郊外的な存在であること、すなわち、ありふれたワン・オブ・ゼム以上になれないことを忘れさせてくれているのだ、と自覚する。

 桐生の言葉に刺激された一人が〈俺…みんなで遊んでる時はいいんすけど 1人になると この先どうなんだろうって ガラにもなく考えちゃって…かといって マジメに働いている自分も想像できねーし……ホント今のまま時間止まんねーかなーなんて思ってて〉と述べているが、ここには、モラトリアムとその後の世界は地続きであり、両者のまったく切断できないことが、不安となってあらわれている。そうした認識下において、〈みんな俺についてこい…そうすりゃ ずっと渋谷の不良のままでいさせてやるからよ〉という断言が喚起するイメージは、現実社会に打撃を与えるテロリズムが、ときおりそうであるのと等しく、ある種の魅力を持っているに違いない。

 ところで、かのように桐生の言動を、テロリズムと仮定するのであれば、やはり、それを食い止めるのが、新太郎に課せられた使命ということになるだろう。

 新太郎や桐生とともに「ZERO」のキー・パーソンでありながら、今は亡くなってしまっている雫の姿が、ここにきて、ようやく描かれる。不良というのでは決してなく、むしろ文系少年のステレオ・タイプであったのは少々意外だが、彼の抱いていた夢も、やはり、渋谷という街の固有性と深く関わっている。雫にとって〈……渋谷は 世界中の音楽好きに愛されている街!〉なのであって、〈ここでレコード屋をやるのが俺の夢!!!〉だったのだ。この、他のどこでもなく渋谷でなければならない、という主張は、もちろん、郊外で匿名的に生きなければならない思想と、相反するものにほかならない。それが、理由は異なれども街への愛情という一点で新太郎と桐生に通じ、雫を旧「ZERO」に参加させることになるのである。こうした、いっけん自分たちと価値観の違うふうでありながら、本質的には何ら変わらない雫との出会いが、のちの新太郎に〈……あの時 俺らはサイコーの仲間を手に入れたんだよな……桐生〉との感慨を抱かせ、現在の「ZERO」が実現しようとしていることは暴力によるモラトリアムの一元化であり、当時の三者の思い描いた理想から逸脱していってはいないか、との疑いを持つに至らせている。

 1巻について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
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