ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年12月19日
 文芸時評という感想

 『文芸時評という感想』は、現代詩作家である荒川洋治が、1992年から2004年までの間、つまり12年間に渡り、産経新聞に連載していた文芸時評を、一冊にまとめたものである。読みはじめる前は、二段組みで、そこそこの厚みがある本なので、読むのに難儀するかもしれないなあ、と思ったのだけれども、これが、そんなことはなかった。ずんちゃずんちゃと読みすすめ、一気呵成に読み終えてしまった。要するに、夢中になるほどに、おもしろかったというわけだ。いや、ほんとうに、ここ最近手にした書評集のなかでは、もっとも読み甲斐のある内容であった。

 率直にいって、荒川洋治という人の読書における趣味と傾向は、僕個人とは異なるものだと思う。もちろん賛成であったりオッケーであったりするところはあるが、基本的には、ちがう。読み方が違う。しかしそれでも、ある一個の意見に対して、あーそういうこともあるのか、と考えさせられるし、だからこそ逆に、なるほどそれならばわかる、といった具合に啓蒙されたりもする。ある言い切りが、書き手のなかで、閉じられていない、読み手に向けて、開かれているのである。大げさにいうと、書評というのは、すべからくそのようにしてあるべきだし、そのようなものはもっと多く書かれ、もっと多く読まれたほうがよいに決まっている。だが、それは難しく、その難しいことが、ここでは行われている、と(繰り返すが)大げさにいうとすれば、そんな感じだ。

 荒川は、自分には批評を書く能力がないので感想を書くだけだ、といっている。これはべつに謙遜でも、ましてや批評する主体としての責任を負いたくない、ということではない。ある作品に触れた、そのときに覚える感想を何よりも重視したい、という態度である。〈人は感動ばかりを求めているのではない。感想だけでもときには、なかなかいいものである。とりとめもないので、あれこれぼんやり考えさせる〉、その広がりをもって〈感想はそのうち感動をこえていく〉、だから〈感動ではなく感想のなかに流されながら、何かを感じとる心地よさ〉を荒川は尊ぶ。しかし、ふつう、そうした見方は、どこか甘いものを連想させる。感想という語は、感動という語に比べると、どこか軽く、うすく、その重厚ではないことのなかに、曖昧さが現れ、厳しさが隠蔽されてしまうのではないか、と訝しがる。だが、しかし荒川の捉まえ方は、全編を通じて、かなりハードだ。なかには、それを言ったらおしまいだろう、と感じるぐらい、キツいものもある。

 たとえば吉本ばなな『アムリタ』を論じた項(93年)である。そこで荒川は、吉本の話の中身よりも、「本当」や「ほんとに」などを乱用する、その言葉遣いのほうが気にかかる。〈ことばが作品そのものを侵していく危険すら感じるからだ〉という。

 「本当」「一生」「恐るべきこと」「悲しい気持ち」「心の底」などの多くは、いわば究極の、感情表現・価値判断を示すことばである。若い世代がよくつかう。文章や会話を現実に支えているのは実はこうした型どおりのことばなのだからこれはこれで正直だ。でもものを書く人がそんなことを簡単にいってしまってもいいのか、とも思う。

 このような批判は、吉本の作品を対象とした際に、かつてよく見かけた類のものである。ちなみに『アムリタ』大好きっ子である僕の立場をいえば、じつはその「本当」や「ほんとに」とした言い方こそがよいのではないか、それこそが矮小にして切実な説得力をもたらしているのだと、ほんとうにそう思う。思っていた。けれども、今は、ここで、荒川がいっていることが、よおくわかる。

 吉本さんの読者は、作者が「本当」といえば「本当」、「心の底」と書けば「心の底」とみる。作者が自分のことばの「レベル」を疑わなければ、それでどこまでもついていく。吉本ばななは「レベル」を知るかしこい作家だ。そしてその「レベル」を他人には教えない作家でもある。肝心のところで、情がうすいのである (略) 読者は「ついていけない」ことをとるより、作者に「ついていく」安定をとる。そこにしか人間の関係をみられなくなっているからだ。「本当」についていってしまう。そういう読者に寄り添う「特殊技能」が作家の「一生」の仕事になりかねない。

 こうした断定は、じつは10年以上もの歳月が経った現在にも、ちゃんと届いている。いま、吉本ばななではなくて、よしもとばななが置かれている状況と、彼女の書く文章に、的確に達している。以前、吉本が使っていた「本当」や「ほんとに」は、小説が、世間に開かれるためのものであったが、今や「本当」や「ほんとに」を、よしもとが書くたびに、そのセンテンスは内輪受けの指示語として閉じられる。もはやある種の排他主義でしかない。そして、そのことに甘んじる書き手と読み手の共犯関係が、僕にはどうもむず痒いのである。またその傾向は、後発の世代の作家や読者にも継承されているように感じられて、どうも居たたまれない気持ちになる。感情移入と共感の回路が肥大化し、それによってのみ作品が成り立ち、各人の自意識が安定するというのは、やっぱりマズいよなあ、と嘆息するのであった。

 話が逸れた。が、それというのは、つまり、これを読みながら、自分の頭の中身がかき回されたということでもある。他にも興味深い箇所はたくさんあるけれども、それらをいちいち挙げていったら、キリがない。たとえば、保坂和志への辛辣な反応には、にんまりとさせられるし、金原ひとみの言葉のうちにある〈思考なし。想像力なし。責任なし。つつしみなし。表現なし。つまり文章と呼べるほどのものはなし〉であるかのような軽薄さを取り出し、それがむしろ鮮やかに映える様を滔々と語るくだりなどが、じつにいい。また90年代以降から現時点にいたる文学のシーンを振り返る際に、事細やかな記録として重宝する、そういう側面も持ち合わせている。そういえば、あのころ東浩紀は文壇で頑張ろうとしてたんだよなあ、と、すっかり忘れていたことを思い出す。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(2) | 読書。
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