ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年10月08日
 これまでの経緯からして、花と天地の一対一による直接対決(タイマン)は、『WORST(ワースト)』というマンガにとって最大の見せ場とならなければならない、すくなくとも読み手の側からすれば、そのような期待を抱いてしまうところで、へたな小細工をせず、真っ正面から二者の意地と意地とをぶつけ、凌がせ、相応に魅力的な数シーンをつくり出し、文字どおり白黒のはっきりとした決着まで持っていき、そこから先の余韻も含め、十分に手応えのある盛り上がりを描ききったのは、さすが高橋ヒロシ、まだまだやればできんじゃん、といった内容の21巻である。まあ、細かくいっていけば、いくつかの不満もなくはない。が、しかしすくなくとも、高橋のフォロワーやその周辺のマンガ家たちが、説教くさいポエムをのたまわっておけば真剣に生きていることの表現になるんだろう、式のクソ手法に屈託がないのとは違い、正しく動的なクライマックスを提出している点は、評価に値する。それにしても、な。結局、不良少年の屈折とは、生い立ちや幼年期の体験に起因してしまうものか。個人的には、もう何度も述べてきたので詳しく繰り返さないが、花と天地の対照のうちに、高橋の過去作『QP』に生じてしまった我妻涼のジレンマを見ていたのだが、その問題はもっと根深く、したがってより大きな視野で捉まえなければならないのかもしれない。たとえば他のすぐれたヤンキー・マンガを例に出すなら、田中宏の『グレアー』における大友勝将と嵜島昇喜郎の因縁がそうであるように、不良少年の孤独は彼ら自身が望んだものではない、にもかかわらず、その運命は自分自身にしか変えられない、こうしたアポリア(困難)は、どの世代にも、どの時代にも存在しており、はたして絶望にもなりうるし、希望にもなりうる。『WORST』において、なぜ天地が花に執着するのか、の理由は、作中人物により〈誰にでもやさしく 笑顔を絶やさない花…その周りには自然と人が集まる そんな花が天地にとはとてつもなくまぶしく そして疎ましい存在だったんだろうよ〉と述べられている。すなわち、自分とは似て非なる人間、もしかしたら自分もそうなれたかもしれない可能性を意識するところから、やって来ている。この関係性は、言うまでもなく、柳内大樹の『ギャングキング』におけるジミーとピンコのそれにも当てはまるものだ。近年では、高橋ヒロシの作風を指し、リアル(リアル系ヤンキー・マンガ)なる修辞を与え、評価している向きもすくなくはないが、もちろん、そのなかに現実を丸ごと見てもらっちゃあ困るし、せいぜい弘兼憲史の『課長島耕作』をリアルだとする程度の、ささやかな認識であると受け止めておきたい(団塊世代にとっての『課長島耕作』と団塊ジュニアにとっての『クローズ』は重要な対比になりえる)。が、しかしながらリアリティとなり、機能するものがあるのだとしたら、それはやはり、前述したとおり、不良少年に象徴されるアポリアが普遍的な要素を汲んでいるからこそ、なのではないか。孤独な自分の運命は自分にしか変えられない。そうしたとき、天地が花と殴り合い、やぶれ、与えられたのは、運命を違えていくためのチャンスにほかならない。二人の決着を見届けた作中人物が〈これで何も感じねーなら天地は本当のクソだ…〉と言っているのも、すなわち、そのことを指している。

 20巻について→こちら
 17巻について→こちら
 11巻について→こちら

・その他高橋ヒロシ関連の文章
 『鈴蘭男子高校入学案内』について→こちら
 『クローズイラストBOOK』Vol.1について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
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