ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年11月19日
 精神分析というのは、じつに現代的な手法である。という意味合いにおいて、加藤典洋よりもずっと、斉藤環は今日を捉えているといえる。が、しかし斎藤の優位性は、たかだかその程度のことで、文章は読みにくいし、最終的には心理学用語で乗り切られるロジックはわかりづらい、批評としての完成度というのは、それほど高くはない。今日的であるが、新しいか古いかといえば、それほどの新しさもない。たとえば、町田康について書かれた文章のなかの、次のような一節。

 ロックの政治性なるものは、それがあったほうが盛り上がるからこそ重要なのであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ(中略)ロック本来の機能は、そこに内在する批評性によって自らを乗り越えようとする契機にこそ極まるのであって、その批評性は政治に限らず全方位に向けられている。 P98

 これはまったくそのとおりだと思うけれども、なぜ今さら、こんなロッキング・オン的というか、渋谷陽一の理論みたいなものを読まされなければならないのだ、という気分にはなる。これはもともと『文學界』に連載された、文学批評を集めた本だが、斎藤がやっているのは、サブ・カルチャーにおけるロジックと精神分析における固有名を文学作品の批評に流用しただけのことで、正直なところ、新しいことは、なにも言われていない。その方法論が新しいのだ、といわれれば、なにも言えないけど。作品に対する評価も、どちらかといえば、通り一遍なものばかりだ。

 とはいえ、この本のなかには、たったひとつ重要な指摘がある。それは「あとがき」(「あとがきに代えて」)のなかにある。「ヤンキー文学」は可能か、という箇所である。
 「ひきこもり系」「じぶん探し系」云々を言い出す後半部分はどうでもいいが、〈主体的な選択によるのではなく、主として同調圧力と、世間から突出しない程度に微調整された差異化志向との間から発生した嗜好なき嗜好〉をヤンキー文化とし、そうした嗜好への〈徹底した嫌悪と反発〉がサブカル志向をもたらし、そうした嗜好による〈抑圧からの逃避〉をオタク志向とする考えは、どこかに参照項があるのかもしれないけれど、もはや戦後などどこにもない、言い換えれば、日本という国自体が外からの抑圧にさらされてはいない、80年代以降の自意識をつかまえる上で、ひじょうに見通しのいいものである。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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