ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年09月20日
 あまり深く考えられてはいないことだと思われるが、佐木飛朗斗とコンビを組んだマンガ家はツー・ショット写真を単行本に掲載しなければならないのか、問題というものがある。そしてそれは、00(ゼロ)年代に入り、健在化したといってもよい。桑原真也(『R-16』)や山田秋太郎(『爆麗音』)など、どちらかといえばオタク寄りの作風で売ってきた人間が、佐木と並ぶ姿は、彼らのそれ以前のキャリアを知るものにとっては、すくなからぬ衝撃を与える。この写真を撮られたかぎり、おまえはもうおれの言うことを聞いて、ヤンキー・マンガを描くしかないんだぜ、と既成事実をあらかじめ作っちゃっているかのようなインパクトがある。『外天の夏』の東直輝も、まさしくそのケースにはまっている。そもそも『週刊少年ジャンプ』からデビューしてきたマンガ家であり、まあオタクに向いた作風とは言い難かったけれども、こう、肩に佐木の手が置かれ、すこし引きつっているふうに見えなくもない表情は、まるで無理やり舎弟にされてしまった小僧みたいである。

 以上のことはまったくの冗談で述べているのではない。たとえば桑原も山田も東も、おおもとの絵柄はまったく違う。それがなぜか、佐木の原作を得ることで、微妙に似てしまう。いったいこれは何なのだ。そう考えていくとき、どうしてもあのツー・ショット写真の存在に行き当たるのだ。つまり、まず佐木の顔を立てなければならない、そのような、もちろん読み手の立場からしたら意識的にか無意識にかは知れない、バイアスがかかっているのではないか。

 さて。じつはここからが本題なのだが、『R-16』も『爆麗音』も『外天の夏』も、舞台をほぼ同じくしながら、さらには暴走族などの固有名を共有しながら、しかしサーガとでもすべき具体的な繋がりを持たない。むしろ、同じ物語がいくつものヴァリエーションをつくり、語り直されている印象がつよい。言い換えるとすれば、佐木が提供した原作に倣いながら、それぞれのマンガ家が二次創作を行っているとさえ、受けとれる。このとき、もっともオリジナルに近しい参照項は、おそらく『疾風伝説 特攻の拓』であろう。この参照項を共有していることが、あるいは、『R-16』と『爆麗音』と『外天の夏』の雰囲気と内容とを似させている。

 不良をたくさん抱える高校に編入してきた坊ちゃんが、謎めいた可憐な少女と知り合い、暴走族のきれたトップと友人関係を結び、周囲の人間からはキー・パーソンと見なされる、このようなストーリー・ラインを持つ『外天の夏』は、どうしても読み手に『特攻の拓』を思い起こさせてしまう。主人公である夏の通う高校の名は、ずばり、私立聖蘭高校であり、夏がそこで親しくする伊織と亜里沙の関係は、マー坊と晶のそれに等しい。さらには“外天”の初代頭であり、今は亡くなっている冬の存在感は、あきらかに『特攻の拓』における誠とだぶる。もちろん、『特攻の拓』では主人公の拓の姿に誠が重なることの理由は、宮沢賢治的な純粋に焦点化されていたのに対し、『外天の夏』の冬と夏とはじつの兄弟ということになっている、だからその姿が重なる。このあたりは、なるほど、血の繋がりによる拘束を重視して展開された『R-16』のテーマを受け継いでいる。だが、そうした血縁の桎梏もまた『特攻の拓』の天羽時貞に象徴されていたものであった。これらを踏まえていった結果、いやまあ1巻の時点で決めつけるのはいかにも早計だが、しかし、ある意味で『外天の夏』は『特攻の拓』の、00(ゼロ)年代的なアップデートのヴァージョンとすらいえる。

 昨年、90年代に一世を風靡したアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』が、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』としてリニューアルされ、その序章が発表された。周知のとおり、かつて『新世紀エヴァンゲリオン』は、さまざまな二次創作を生んだ。もしかしたら『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』自体、そうした二次創作の一環、いや、決定版と捉まえることも可能だろう。それに通じることが『新世紀エヴァンゲリオン』と一部同時代の作品であり表現でもあった『特攻の拓』をベースに起きたとして、なんら不思議ではあるまい。『外天の夏』は、ふと、そんなことを考えさせる。

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』1巻・2巻(漫画・山田秋太郎)について→こちら 
 『パッサカリア[Op.7]』(漫画・山田秋太郎)について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
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