ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年08月31日
 覇-LORD 13 (13) (ビッグコミックス)

 「男(おとこ)」を「漢(おとこ)」と書き換えることにどういう意味があるのか。これを考えず容易く行う者は阿呆である(以前は自分もその阿呆の一人であった)。せめてギャグやアイロニーのつもりであるなら、まだ救いがあるには違いないのだけれども、しかし今どき誰でもやっていることが、そんなにおもしろいかあ、すくなくとも高度なレベルにまで昇華できているものは僅か、というのが正直なところだと思う。結局、たいていの場合においては「男」だろうが「漢」だろうが、たんにフィーリングで使い分けられているにすぎない。ぶっちゃけて、おまえの気分なんて知らねえよ。しかしながら、そうしたありようが普通であるのに対し、『覇‐LORD‐』というマンガには、「漢」と「男」とがたとえ同じ読み方をなされようとも、根源的には非なる意味合いを兼ねていると言わんばかりの迫力があって、そこが信用できる。作中の人物を用いるなら、倭から流れてきて、董卓に取り入り、権力を志向する常元は「男」でしかないだろう(今後の進み方次第では「漢」に生まれ変わる可能性もあるから現時点ではという留保つきで)。一方、同じ倭人でありながらも、権力よりもおおきなものをのぞみ、劉備玄徳に成り代わった燎宇などは、まさしく「漢」として描かれている。この13巻で、とうとう曹操が劉備の正体を知って〈“小国”に育った“漢(おとこ)”〉と述べ、その罪を問われた関羽と張飛が〈“倭人”であろうと“漢人”であろうと――――我らは“劉備”という“漢”に、この大陸を託したのでござる!!〉と返すのは、じつに象徴的な場面だといえよう。ここでの「漢」は、おそらく「漢人」にかけてある、そういう意味で「男」とは入れ換え不可能な用法になっている。だが、生き様や心意気というものは人種的な区別によってなされるべきではないとすることで、さらなる応用すらも示している。たんに「漢(おとこ)」と書かれているから燃えるのではない。その「漢」と書かざるをえない力学が、決して気分により支えられているのではないときにこそ、燃えるべきなのだ。この点を勘違いしてはならない。物語としては、劉備が敗走し、呂布がふたたび董卓と手を組むあたりに、おおきな展開が見える。が、個人的にはやっぱり、公孫サンと張燕の、ぶさいく二人組にたまらないものがあるのだった。くそおお。その切なさと惨めさをと悔しさを糧に、はやく大活躍してくれ。

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posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
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