ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年08月21日
 サムライソルジャー 1 (1) (ヤングジャンプコミックス)

 返す返すも山本隆一郎の『GOLD』は傑作であった。モラトリアムという、ほんらいなら限定されるべき季節を適確なサイズで切り出し、内に生い立ちと自意識の不幸を捉まえながら、縁の部分に救いがたき孤独を濃く描き、それでも人は生きていかなければならないとするメッセージをじつにパワフルに断言してみせた。結果、導き出されたハッピー・エンドの触感は、00(ゼロ)年代におけるサブ・カルチャー表現の、とくに高度な達成の一つに数えられる。正直なところ、社会的な知名度や影響は低く、「このマンガがほにゃらら」系のなぜか命令口調なマス・メディアの企画に取り上げられることもなかったけれど、まさか不良やギャングを扱っているというだけで自称マンガに理解のある方々がパスしたはずもないだろうから、おそらく高度であるあまり受け入れがたいものがあったのかもしれない。芸術の方面では、まあよく聞く話である。

 その作者があらたに手がけるのが、この『サムライソルジャー』であって、作品のなかで今後担われていくに違いないテーマは、第1話の時点において主人公の口からじかに発せられていると推測される。つまり〈本当の意味の強さってのはな…どこのチームに属してるだとか誰の下についてるだとか……そんなモノサシで測れるようなもんじゃねーんだ!〉ということだと思われる。

 大小さまざまなチームがケンカと暴力により群雄割拠する渋谷に、かつて“渋谷の恐竜”とおそれられた男、藤村新太郎が舞い戻ってきたことをきっかけに、物語の幕は開く。新太郎は、現在渋谷でもっとも存在感がつよいとされる「ZERO」を立ち上げた、ごく初期のメンバーであった。しかしその彼が、どうしていったんは渋谷を離れ、そしてふたたび帰ってきたのか。作中では、弟分を殺され、報復を果たし、長野の少年院に入れられていたと説明されている。だが、それはただの事情にすぎなく、「ZERO」のトップである桐生とのあいだに、喪われた弟分の雫を通じ、なにか、いわくありげな因縁が存在しているためだともぼかされ、示されている。一方、舞台である渋谷は、新太郎がいた頃とくらべ、さらに混沌は激しく、より多くの波乱が満ちる場所になってしまっている。その渦中で桐生は「ZERO」とともに、他のチームを圧倒し、渋谷に自分の王国をつくろうとしているのだという。すなわち〈『マーダーコープ』『紅蓮』『ナダレ』…その他もろもろの渋谷の不良集団(チーム)…全部 俺のモンにして この街の王様になるわ〉と宣言されるこの野望が、物語をはためかすもう一つの動力にほかならない。これに対し、〈んなこたぁ不可能だし どれだけ多くの無駄な血を流すことになるのか 一番わかってんのがテメーじゃねーのか!?〉と反論する新太郎が、大規模な抗争のなかでどのような役割を負っていくのか。種々のトライブが衝突し合う状況と、その超克のありうるありえないは今日的なモチーフであり、スリリングな魅力を秘めている。が、しかし、本音をいえば、この1巻を読むかぎり、やや微妙な部分が生じてしまってもいる。

 もちろん、いまどき渋谷でカラーギャングかよ、と、マンガのセンスを評価するのは容易い。だが、それは表層を見ているにすぎないのであって、渋谷やカラーギャングといった符号も結局は『サムライソルジャー』全体を覆う誇張、デフォルメの一部でしかない。だからこそ問われなければならないのは、そのデフォルメの手法自体について、であろう。このことを述べるには、どうしても作品を一度、ヤンキー・マンガの文脈に引き寄せてみる必要がある。もっというなら、ハロルド作石から高橋ヒロシへ、という90年代的なラインの、その後に作品を置いてみなければならない。じっさいの影響源や作者の意識はともかく、『サムライソルジャー』のストーリーには、高橋ヒロシの『QP』を思わせるところがあるが、それともまたすこし話が違う。

 たとえば、ハロルドの『ゴリラーマン』は連載開始の当初は、たいへん劇画タッチのつよい作風であったわけだけれど、後期に入ってくるとデフォルメのニュアンスが支配的になっていく。ハロルドがどれだけデフォルメ化を重視していたかは『ゴリラーマン』終了後に描かれた『サバンナのハイエナ』の存在によってあきらかだと思う。しかし『サバンナのハイエナ』が頓挫したのち、再度、デフォルメとリアリズムの相半ばするところに作家性を回帰する。マンガ史的にはあくまでも大雑把な印象になるが(だってこの分野にけるすぐれた研究がまだないんだもん)、そうしたデザインを正当に受け継いだのが、高橋ヒロシである。ここで重要なのは、そのようなラインの高橋ヒロシ以降に位置づけられるマンガ家の多くが、隔週もしくは月刊の連載でその才能を開花させていった点にほからない。いや、高橋自身、単発の作品などをべつにすれば、あくまでも月刊誌を活動のベースにしており、あるいはハロルド作石でさえ、月刊での連載である『BECK』において大メジャーになったといえる。

 山本隆一郎もまた、それ以前のキャリアを踏まえ、あの『GOLD』での偉業を考えるのであれば、やはり隔週誌で花開いた才能の一人にあたる。しかし『サムライソルジャー』の場合、連載は週刊誌である『ヤングジャンプ』にて行われている。このことが、たぶん、線や絵の簡略化、リアリズムよりもデフォルメの趣向を推し進める、おおきな要因になっている。走ってくる電車をキック一つで停止させてしまう桐生は、とても人間離れし、あたかもどおくまんのギャグ・マンガに出てくる登場人物のようである。それ以外の場面にもすこしばかりデフォルメのすぎる描写が見受けられる。これがシリアスな内容にあって、やや微妙な部分を為している。とはいえ、そのおかげで結構がわかりやすくなれば、『GOLD』が難解であるあまりうまく飲み込めなかった方々も、作品に入りやすかろう(ここ、皮肉ね)。これまで言葉足らずではあるものの、いささか文章が長くなってしまったので、物語のレベルにおける細かい云々は、次巻以降に触れる。

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
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