ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年07月03日
 ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

 すこし前から、「ケータイ小説がどうの」と題名のつけられた本をよく見かける、ような気がする。そのなかにあって、速水健朗の『ケータイ小説的。“再ヤンキー化”時代の少女たち』が他と一線を画すのは、巻末に挙げられている参考文献の膨大さだろう。じっさいに数多くのケータイ小説にあたっているのはもちろん、社会学まわりの様々な研究が題材化されている。いやいや、このことの意味がじつはおおきい。送り手(元関係者)の側からケータイ小説の成り立ちを報告した伊東寿朗の『ケータイ小説活字革命論―新世代へのマーケティング術』はともかくとして、たとえば杉浦由美子の『ケータイ小説のリアル』がとっている〈現場を数多く取材することで、その本質を語っていく〉というアプローチとは、対極とまでいかなくとも、かなり置かれている立場の違うことがわかるし、本田透の『なぜケータイ小説は売れるのか』や、その本田の新書を叩き台にした石原千秋の『ケータイ小説は文学か』が、題にあるとおりの疑問系を出発点にしているのに対して、むしろケータイ小説の登場とヒットを、しごく自然なものとして論じるための前提条件とするには、せめてこれだけの参考文献が必要であったのだろう、と思う(個人的には、それでもまだ足りていない気がする)。

 ところで参考文献の一つに挙げられている『暴走族のエスノグラフィー モードの叛乱と文化の呪縛』(84年)のなかで、佐藤郁哉は、それが登場した昭和30年代頃(1960年代)にはそもそも都会での活動をベースにしていた日本のモーターサイクルギャングが、時代がくだるにつれ、全国に拡大し、やがて地方に定着するうち、暴走族という独特な詩学をつくり上げていったのだと、報告している。日本の暴走族は、ヘルズエンジェルスなどの海外におけるモーターサイクルギャングとは完全に異形のものであるが、しかし、それは日本と諸外国の文化的な偏差にほかならず、ある程度まで発達した消費社会もしくは高度にサブ・カルチャー化した社会にあっては、必然と生じうる一個の現象だとさえいえる。そうしたとき、なにも話は暴走族だけのものにとどまらないだろう。たとえば、今日の我々が郊外的などと呼ぶ平準化に包括されるほとんどの事象は、同根のヴァリエーションでしかありえない。速水は前著『自分探しが止まらない』の終わり間近で、〈自分探しが止まらないのは、現代の若者に限った話ではなく、ある程度モノの満たされた資本主義社会の大きな潮流でもあるのだ〉と述べているけれども、この問題意識がおそらく、『ケータイ小説的。』のうちに〈ケータイ小説は、よく言われるように、似通ったプロットやモチーフに偏る傾向がある〉ことの理由は〈ケータイ小説の著者たちが影響を受けたさまざまな文化や、生きてきた社会的な環境などの共通性が、似通った作品を同時多発的に生み出しているのではないか〉とする仮説(P17)をもたらしている。

 そう見るのであれば、速水が、三浦展の「ファスト風土化」という言葉を引き、〈ファスト風土化は、人間性や人間らしい生活を剥奪するために進行したものではなく、現代の社会の在り方に添って生まれた新しい環境に過ぎない。それは、われわれが何モノで、何を求めているかを正直に反映しているものでもあるのだ〉と述べ、〈ファスト風土化を嫌うことは、現代人の自己嫌悪である〉といっているのは、いかにも象徴的である。「ファスト風土化」とパラレルの関係であるようなケータイ小説の内容は、ショッキングであろうか、センセーショナルであろうか、あるいは逆に、子供騙しと茶化してみせるほどに矮小であろうか。『ケータイ小説的。』では、ケータイ小説の内容を論じるにさいし、浜崎あゆみのブレイクを直接の影響元とし、その源泉には、紡木たくの表現技法や、相田みつをの詩作を受け入れる感性、ヤンキー向けの雑誌である『ティーンズロード』の読者投稿欄があるとして、どうしてそれらが、一時的にとはいえ、大勢に支持され、生半可ない説得力を持つに至ったのか、に迫っていく。

 このあたりの経緯は、なかなかに重層的であり、入り組み、要約することは難しいが、98年頃に〈旧ヤンキー文化が衰退していったのと入れ替わりに台頭してくるのが、自分の内側の敵=トラウマとの闘争を描く内省的な作品群だ〉ったとして、しかしその転換は〈それまで陽性だったヤンキーの世界が、突然陰性へと変化したということを意味するわけではない〉のであり、〈『ティーンズロード』の投稿欄が、いじめに苦しむさまから始まり、それがエスカレートし過激な不幸自慢へと展開していったように、一九八〇年代半ばのヤンキー少女漫画『ホットロード』が、母親からの愛情を感じられなくなった少女がSOS信号として暴走族に染まっていく物語として描かれたように、昔から女の子のヤンキー物語は決して陽性なものではなかったのだ〉し、〈反抗すべき敵を社会のような外部に定めることができず、みずからの内面に敵を見つけていく姿というのは、ケータイ小説の主人公の生き方とオーバーラップするものである〉と、速水がいっていることは重要だ。〈レイプや流産、恋人の死といった不幸に直面しながらも、その不幸を嘆くのではなく、すべて自分の内面に抱え込む。そして、何かに反抗するということはなく、常に自分の内面に敵を設定し、最後は前を向いて生きていくことを決意する〉、そのような〈『恋空』をはじめとする多くのケータイ小説で描かれる共通の世界観〉にあらわれているのは、つまり少女がいかにして傷を過去のものとするかであり、かつて大塚英志が『ホットロード』を例に、通過儀礼の構造を指摘した物語のイメージとだぶる。

 ちなみに『ケータイ小説的。』には、大塚の『「おたく」の精神史一九八〇年代論』と『サブカルチャー文学論』、『少女民俗学』が参考文献に挙げられているけれども、大塚は『システムと儀式』(88年)のなかで〈佐藤郁哉は、暴走族とは自作自演の通過儀礼だという意味のことを『ヤンキー・暴走族・社会人』で書いている〉といい、〈「ホットロード」は儀式のない時代にあって作り出された少女たちのための通過儀礼の神話だった〉と述べている。大幅に後日談の追加された文庫版の『恋空〜切ナイ恋物語〜スペシャル・バージョン』を読めばわかるとおり、『恋空』とは、作者の美嘉が、異界をめぐり、現実に帰ってき、大人になって幸福に暮らすために必要な物語であったことが、強調されている。もちろん、これは大塚のいう通過儀礼の構造と相似だとさえいる。敷衍すれば、『恋空』の主人公である美嘉の体験が、まったくの絵空事に見えようが、異界で起きたことだから当然なのであって、それを批判することは、すなわち批判にすらなりえない。というのは余談である。

 いや、だからこそ目を向けなければならないのは、それが一方では真実だと信じられる、信じられている現実がたしかにあることで、すくなくとも『ケータイ小説的。』は、そうした諸々を考えるための十分な補助線として機能している。

 ※この項、後日書き改める可能性があります。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(08年)
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