ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2017年07月24日
 薔薇王の葬列(8)(プリンセス・コミックス)

 実際のところ、菅野文がセクシュアリティの難題にどれほど関心が高いのかは知らない(ストーリーを運ぶための手段として用いられているにすぎないのではないかと思われる場面も少なくはない)のだが、代表作である『オトメン(乙男)』で喜劇的に否定された性差の障壁は、この『薔薇王の葬列』において極めて悲劇的な筋書きを描き出していく。そもそもがウィリアム・シェイクスピアの『ヘンリー六世』と『リチャード三世』を原案に抱き、大胆な解釈を試みたマンガである。歴史の悲劇的なサイドに対する目配りは、過去にも『北走新選組』等のシリーズで見られたものだ。それがここでは中世イングランドの薔薇戦争を題材とし、凄惨さの夥しい、暗澹たる愛憎劇を織り成すに至っている。

 作品は、両性具有に生まれたことに苦しむリチャード(のちのリチャード三世)と純粋であるあまり狂気をも内包したヘンリー六世のラヴ・ロマンスに思われるかのような出会いを主軸にしている。もちろん、史実としてはありえないであろう二人の関係ではあるのだけれど、本来なら憎しみ、殺し合わなければならなかった彼らに、しかし、お互いに救いを求め、愛し合っていたかもしれない可能性を与えることで、正しく愛憎の入り混じった悲劇が繰り広げられる結果となっているのだ。この8巻で、本格的に『ヘンリー六世』の物語は終着を迎え、いよいよ『リチャード三世』にあたる物語が幕を開く。つまりは新展開が訪れたといえよう。それでもなお、ランカスター家の長、ヘンリー六世とヨーク家の三男、リチャードの共鳴と拒絶と葛藤とが『薔薇王の葬列』の真髄であり続けていることは明らかである。

 死ぬことが呪いであるなら、生きることもまた呪いである。こうした逃れようのない呪いのその循環を『薔薇王の葬列』の登場人物たちは皆、知らずのうちに引き受けてしまっている。運命の歯車の一つとして重要な役割を担っていくが、同時に欠けることも許された歯車の一つとして安易に姿を消していく。だが、歯車の一つの欠けた影響が残った歯車の動きに次々と歪みをもたらしていくのでもあった。それが史実だとはいえ、エドワードが命を落としたのは結構ショックだった。ヘンリー六世の息子でありながら、敵対するリチャードに惹かれ、率直に想いを遂げようとした青年の姿には、この影ばかりが濃い作品にあって比較的に明るいものを見出せたからだ。しかし、エドワードも例外ではなく、呪いに囚われた人間としての役割を果たさざるをえない。そして、エドワードの死がリチャードに新たな呪いを注ぎ込んだことを予感させ、時間は飛ぶ。『ヘンリー六世』の終わりのときから『リチャード三世』のはじまりのときへ。

 ああ、栄華を得たはずのヨーク家だったが、退廃に溺れた長兄のエドワードと次兄のジョージの軋轢が増し、壊れた家族像のなかにリチャードは再び地獄巡りの悪夢を重ねるようになるのである。兄弟の子供や若い世代が物語の舞台に昇ってくるけれど、それはあたかも死んでいった人間たちに代わり、呪いを循環させるためなのかもしれない。成長し、以前よりも狡猾さの似合ったふうであるバッキンガムは、いかなる岐路をリチャードに指し示すのか。いずれにせよ、これまでのドラマが十分に残酷であったのと等しく、ここからのドラマが残酷であるのだろうと身構えるしかない。ジェイムズ・ティレルと呼ばれ、手を血に染めた男のまさかの相貌は、これがリチャードとヘンリー六世のあいだに横たわる絶望や愛憎を醍醐味とした悲劇であったことをまざまざと思い出させる。
2017年07月15日
 冥銭のドラグーン(3) (講談社コミックス月刊マガジン)

 日本史のIF(もしも)を描くことは、『山賊王』や『遮那王義経』を通じ、沢田ひろふみのお家芸になりつつある。『冥銭のドラグーン』では、もしも大阪夏の陣(1915年)で真田幸村が徳川家康を討ち取っていたのだとしたら、引き続き徳川方と豊臣方に分かれたままの争乱は、いかなる道筋を辿るのであろうかが創作されている。主人公は、真田大助幸昌(真田幸村の嫡男)の幼馴染みということになっている鏡風太である。風太の非凡な閃きが真田家に奇跡的な戦略と勝利とをもたらしていくのであった。1巻の冒頭に意図されているとおり、『冥銭のドラグーン』は、日本史の大幅な改変を厭わない。あくまでもファンタジー、ファンタジーとしての日本史と換言できるものであって、風太の存在は、これがファンタジーであることの象徴にほかならない。3巻では、真田家の四女、アグリに他人の考えを見透かせるかのような特殊な能力の備わっていることが示唆される。こうしたファンタジーの力学が、本来なら大阪夏の陣を境に敗者の側へと回されてしまう真田家を史実とは異なった運命に導くのだ。が、着目されたいのは、ファンタジーであるがゆえの設定を発展させることで(実際の年齢で数えてみてもまだ若い)風太や大助の姿に少年マンガならではの逞しさや純粋さを与えている点だと思う。それは一癖も二癖もある大人たちの仕掛ける策謀を風太と大助がなんとか跳ね返し、なんとか跳ね返したことの結果が彼らを次のステージにアップさせ、現実とは別個の日本史を屹立させるという物語の構成に明らかとなっている。題名にある『冥銭のドラグーン』とは、おそらく、六文銭(冥銭)を家紋とした真田家の騎兵たちに量産した八連発の鉄砲を持たせるという風太の着想に由来している。それは2巻で〈今まで誰も見た事のない最強の銃騎兵軍〉だとされ、プロト・タイプとすべき成果が3巻において〈炎を噴く龍が現れた如くに〉と形容される。もちろん、当時としては未曾有の戦力が誕生しうるかもしれない可能性もまた、日本史のIF(もしも)であることの産物だろう。