ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2017年06月25日
 Two Parts Viper

 ベースレスのディオという編成は、ロック・バンドのスタイルとしては今や広く認められたものに違いない。元NROMA JEAN、元THE CHARIOTのヴォーカル、ジョシュ・スコギンの'68も、彼自身がギターを兼ね、ドラムとの2人組となっている。これまでのキャリアからするとハードコアの資質がおおもとにあるのだろうが、サウンドの方向性は90年代のアメリカン・オルタナティヴ、インディ・ロックをイメージさせる。しいて喩えるなら、NIRVANAとTHE JON SUPENCER BLUES EXPOSIONのミックスを思わせるところがある。まあ、NIRVANAにせよTHE JON SUPENCER BLUES EXPOSIONにせよハードコアの文脈とかけ離れているわけではないのだけれど、NROMA JEANにあったメタリックな響きやTHE CHARIOTにおけるカオティックなアプローチとはいくらか距離をとったサウンドを'68は抱いているのだ。ロー・ファイの濁りを残すことでギターとドラムの簡素なダイナミズムに鋭さが加わり、演奏時のテンションがそのまま楽曲の価値を底上げしているかのような印象である。ジョシュのヴォーカルは相変わらずいきり立っているし、本当にジョン・スペンサーみたいなシャウトを聴かせることもある。ただし、研ぎ澄まされたまでのインパクトに欠け、ちょっとばかり物足りなさを覚えるのも確か。この手の出力が勝負なサウンドにとってインパクトはすごく大事よ、であろう。それは2014年のファースト・アルバム『IN HUMOR AND SADNESS』にも感じたことで、残念ながらセカンド・アルバムの『TWO PARTS VIPER』でも払拭されてはいない。たぶん、ライヴだとスタジオ音源を遥かに上回った破壊力が発揮されるのだろうな、と思う。そう思えてしまうことが歯痒い。

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posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2017年)
2017年06月22日
 聖闘士星矢EPISODE.Gアサシン 10 (チャンピオンREDコミックス)

 やっぱり、岡田芽武の『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』は、最高だな。誰がなんと言おうと、最高なんだぞ。大好きである。どうして最高なのか。原作である車田正美の『聖闘士星矢』のあらゆる登場人物を格好良く描きたいという欲望をフル回転させているとしか思われない勢いの筆致が、実際に『聖闘士星矢』のあらゆる登場人物を格好良く描き出しているというアレンジの見事さに尽きる。以前にも述べたように、蟹座のデスマスク史上最高に格好良いデスマスクは『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』のデスマスクだと信じてやまない。

 そもそも『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』は、オリジナルにあたる『聖闘士星矢』の前日譚であった『聖闘士星矢EPISODE.G』の外伝的な性格が強いマンガだったはずなのだけれど、巻が進むにつれ、本編が終結したあとの直接の時間を、つまりは後日譚とされるような展開を見せはじめているのであった。もちろん、正統な続編としては車田正美本人による『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』が存在し、現在進行形で連載されている以上、広義での二次創作になるのであろう。しかし、たとえば永井豪以外のマンガ家が永井豪の作品の続編を作ったり、アニメなどのメディア・ミックスで永井豪の作品の続編が作られたりしていることを考えると、決して類例のないケースではないし、マンガが原作でなければ『機動戦士ガンダム』や『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』のシリーズ等も様々なヴァリエーションが公式に展開されている。海外に目を向けるならマーベル・コミックやDCコミックスのヒーローたちがいくつものパラレル・ワールドを行き来することは、もはや一般的ですらある。こうした受容のなかに『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』も置かれるべきだと考えられる。

 そして『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』が圧倒的に正しいのは、最初に述べたとおり、『聖闘士星矢』のあらゆる登場人物が格好良く描き出されているからにほかならないし、大胆なカットとポエジーとで登場人物の格好良さを引き立てることが車田正美のイズムに関わるものであるなら、岡田芽武ならではのタッチを殺すことなく、それを見事に取り込んでいるからだ。さらに付け加えると、フルカラーのド派手なスペクタクルがスマートフォンなどのゲーム・アプリにおける演出に近接していることは過去にもいってきた。

 ふおおお。辰巳きたああ。って、声をあげる読者がどれだけいるかは知らないが、自分は辰巳のファンなので、この10巻で辰巳が出てきた途端、鼻息が荒くなりましたね、なのである。執事に萌える方々も辰巳の出番に歓喜なのではないか。いや、それはないな、とか言ってはいけない。確かに原作の辰巳にファンは少ないかもしれないが、岡田版では小憎らしさを残したまま、ヴィジュアルと言動の面に城戸家の支えに相応しい厳つさが増している。これはこれで格好良いのではないか。ただまあ、ちょっと年寄りにしすぎているのでは、と思う。辰巳の話題を長々と引っ張っても仕方ないのだけれど、『聖闘士星矢』のあらゆる登場人物が格好良く描き出されていることの一例にほかならないのであった。無論、辰巳ばかりではない。ついにあの聖闘士やあの聖闘士が、という強烈なサプライズが次々ともたらされており、聖矢世代から上の世代までオールスター揃い踏みの感がより強まってきている。平凡な少女に思われた吉乃が聖闘士(セイント)や剣闘士(グラディエーター)にとって、いかなる意味を持っているのかが明かされ、ストーリーにも進展が表れているが、吉乃の父母として顔を見せるのが、ここでお前らかよ、と驚かされるものであって、気を抜けない。

 7巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『聖闘士星矢 EPISODE.G』
  20巻について→こちら
 17巻について→こちら
  15巻について→こちら
  0巻について→こちら 
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  10巻について→こちら
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2017年06月19日
 アヴァルト(5) (シリウスコミックス)

 メタ・ファンタジーものといおうか。MMORPG的なリアリティ(現代ならではの知識や感性)で(本来ならば前近代であるような)剣と魔法の世界を再構成するというタイプのフィクションは近年のトレンドだけれど、群を抜いているのではないかと思われるのが、光永康則の『アヴァルト』である。ファンタジーやSFなどを通じ、よく「わかっている」はずの設定が駆使されているにもかかわらず、先のまったく「わからない」展開が次々と現れてくるのだ。

 ああ、そこは既に発狂した世界であった。宇宙航海の途中で1万年の長き冷凍睡眠(コールドスリープ)から目覚めたロイド・コスギは、いつの間にか自分たちの船が地球の圏内に戻っていることを知った。どうしてか自分以外の乗務員が皆いなくなっていることを知った。地上の人類と文明のほとんどが失われてしまったことを知った。しかし、最も驚愕させられたのは、わずかに残った人類が、とあるMMORPGのNPCに支配され、NPCである彼らを神(アヴァルト)として崇めていることなのだった。一体何が起こったというのか。手がかりを求め、その(自分もプレイヤーのアカウントを持ち、かつて遊び尽くした)MMORPGにログインしたロイドは、まさか実際の地球にアバターの姿を借りて降り立てるとは思ってもみなかった。

 作品そのものに仕掛けられた謎を、ロイドを含めた登場人物たちが解き明かしていく過程のなかに素晴らしいダイナミズムがあるため、物語を詳しく説明するのは難しい。が、神と同じ銀の髪色のせいで母親を殺された少年、タギやタギを庇ったおかげで神の立場を追われた美女、シノアと行きがかり奇妙なパーティを組むことになったロイドは、徐々にではあるけれど、なぜMMORPGのNPCが神となり、地球に君臨しているのかという真相へと近づいていくのである。

 ロイドとは、登場人物の1人であることはもちろんなのだが、作品の枠組みをメタ・レベルから認識しうる視線にほかならない。そして、それは作品そのものを外部から覗き見ている読者の認識を肩代わりしてもいる。世界はいかに発狂しているのか。ロイドの得た想定がショッキングであればあるほど、物語の求心力が倍加される。さらにいうなら、神の正体に気づいている人間はロイドだけではない。要するにメタ・レベルの認識を有した別のパーティが存在していることは、これまでに描かれており、5巻にきて、そのうちの1人であるヒルダがロイドたちのパーティに合流してくる。もっと大きな局面も訪れる。ロイドの居場所は2巻の終盤からほとんど動いていないのに、物語は着実に進んでいるという印象がある。あらかじめ打たれていた布石が、こう繋がるのだと感心する。てきめんな効果をあげているためであろう。

 ところで、剣と魔法の世界において不思議なことが起きたりするのは、どういったわけなのか。異能の力が働いたりするのは、それが剣と魔法の世界だから式のトートロジーで説得されるよりほかない作品が、ままある。しかし、『アヴァルト』では、ファンタジーでしかありえない現象がありえてしまう疑問に対し、科学での証明が果たされるのだ。つまり、メタ・ファンタジーものであると同時にSFでもある。あるいは、SFのロジックによって可能になったメタ・ファンタジーものだといえる。作品そのものに仕掛けられた謎を解き明かしていく過程のなかに素晴らしいダイナミズムがあると述べたのは、このような意味である。タギの成長にちなんだジュヴナイルな一面を持ってはいるけれど、タギの役割が増すにつれ、不穏な問いを確かめざるをえなくなる。なにゆえにタギは神と同じ銀の髪色をしているのか。

 本来なら凄絶な地獄が舞台となっているわりに、全体のテンションは悲惨にならず、登場人物の死がエモーショナルに傾きすぎていないあたり、『怪物王女』の作者だな、と思わされる。

 他方、ロイドやヒルダのパートナーであるコウサに共通した倫理が備わっている点を看過してはならない。それは1巻におけるロイドの言葉を借りるなら〈俺は旧文明の生き残りとして こうなってしまった責任を少しは感じる だからこの時代の人間たちに神を斃す方法の道筋ぐらいはつけてやりたい〉ということであって、4巻におけるコウサの言葉を借りすなら〈‥‥俺たちはさ かつての人類を知っている 知っているんだよ 俺は旧世代の人類として俺達の持っている火を 運んで 誰かに渡さなきゃいけないんだよ〉ということである。この毅然とした決意が、取り返しがつかない災厄の満ち満ちた『アヴァルト』の世界に一縷の望みを与えていることは間違いない。

 繰り返しになるが、ロイドの視線は読者の認識を肩代わりしている。もしもそうであるとしたら、人類がはからずも未来に残してしまった負の遺産について無責任を決め込まない彼の態度は、ファンタジーだから、SFだから、では済まされない今日的なテーマを内包してもいるのであった。