ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年12月22日
 リクドウ 10 (ヤングジャンプコミックス)

 以前、どうして格闘マンガは父殺しのテーマから逃れられないのか、と書いた。その一方で、どうしてボクシング・マンガは父なし子のテーマから逃れられないのか、と考えさせられるときがある。もちろん、すべてのボクシング・マンガが父なし子の背景を持っているとはいえないかもしれない。が、ボクシング・マンガを代表するような作品の多くが父なし子の背景を持っているといえるのである。『がんばれ元気』『リングにかけろ(リングにかけろ2)』『チャンプ』『エイジ』『神様はサウスポー』『はじめの一歩』『Monacoの空へ』『シュガー(RIN)』etc。もしかしたら、これらの源流には『あしたのジョー』の存在があり、ほとんどのボクシング・マンガが『あしたのジョー』のヴァリエーションだとの解釈もできなくはない。それは、ある場合には孤児の姿として現れ、ある場合にはボクサーとセコンドの立場に擬似的な父子の関係をもたらしていく。こうした傾向に、松原利光の『リクドウ』は、意外なほど忠実だ。主人公である芥生リクの殺伐とした境遇は、確かに現代的ではある。現代的であると同時に行き過ぎた不幸が、作品のムードをダウナーに引っ張ってはいる。反面、一種の様式からくるようなカタルシスがあり、決してつらいだけの物語にはなっていない。古典的に見える部分が翻ってエンターテイメントにかかるバランスの面を支えているのだと思う。

 持たざる者の戦いをいかに描くか。これがおそらくは様式の一端を担っている。持たざる者の欲望をハングリー精神と喩えるのであれば、それが闘争を呼び、闘争を通じ、欠落を埋めるための報酬を得ていくことに、カタルシスは由来しているのだ。呪われ、戦い、勝った、のプロットであり、カタルシスであろう。凄惨な幼少時代を過ごし、スタンダードな感情に乏しくなってしまった芥生リクの振る舞いは、今風にいうなら、壊れていると形容されるものである。しかし、異常である以前に持たざる者としての資質が、彼をボクシングのリングに上がらせている点こそ、看過してはならないと思う。むしろ、持たざる者としての資質は、物語が進むにつれ、より明確となっていき、この10巻では、異常であるような眼光の登場人物やライヴァルたちが次々と出てきたことで、リクの欠落と欲望とが実は正常に近いのではないかと判断されるほどになっている。注意されたいのは、リクとリクをめぐる他の登場人物との関係であった。高校を卒業し、施設を離れることになったリクは、幼馴染みである苗代ユキとの二人暮らしをはじめる。異性に禁忌を覚えるリクにとって、ユキは恋人というよりも母親の代替なのではないかと暗示されるシーンがある。リクが所属している馬場拳闘ジムの会長は、高校を卒業したリクを本格的に育て上げるべく、人手を集めようとする。そこで強調されているのは、チームとしての役割なのだが、リクに対するユキの働きかけも会長の働きかけも、家族という概念でリクのイメージを包括するかのような趣向を伴っている。『リクドウ』が家族の不在に寄り添った物語であると読者に理解(もしくは誤解)させうる効果にほかならない。

 しかし、リクの欠落と欲望とが必ずしも家族という概念に包括されないことは、リクをボクシングへと導いた元ボクサーのヤクザ、所沢京介とリクの関係が、他の登場人物とリクの関係に比べ、数段特別に扱われている点で明白だ。自分を救ってくれた京介に対するリクの憧憬には、もしも理想の父親というものがあるのだとすれば、それを求めるのに近い視線が含まれている。こう推定したところで、あながち的外れではないだろう。当然、父親の存在は、家族の枠組みに結びついていくのだけれど、母親の存在とは完全に別個の回路を持っているのである。リクは自分も京介のようになりたいと願う。そのためにボクサーになったのだった。京介のようになりたいとは、赤の他人であるはずの京介を慕い、追いかけ、いずれは追い抜き、京介だけが持っていた何かしらの輝きを手に入れることを意味しているのであって、ここに父殺しのテーマや父なし子のテーマを見つけ出すことができる。

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