ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年06月29日
 頂き!成り上がり飯(1)【特典ペーパー付き】 (RYU COMICS)

 近年、グルメ・マンガのジャンルは大きなムーヴメントだが、物語と呼ぶのに相応しい時間の縦軸をきちんと機能させている作品は少なく、結局のところ、「クックパッド」的なレシピや「ぐるなび」的なガイド、登場人物のリアクションとを土台にした安易な作りのものがほとんどであって、テレビの情報番組やヴァラエティ番組と一緒じゃん、という感想を脱していない点で、方法論としては頭打ちなところがある。他方、ヤンキー・マンガの現状を見てみるなら、著名人の自伝をベースにした作品や往年のヒット作の続編が大部分を占めるようになってしまっており、こちらも方法論としては頭打ちなところである。

 さて、さしあたり、そのグルメ・マンガとヤンキー・マンガの二つの領域をミックスしてみたのが、奥嶋ひろまさの『頂き!成り上がり飯』であろう。料理を題材にしているけれど、「クックパッド」的なレシピや「ぐるなび」的なガイドと隣接しておらず、芸能人のレポーターさながら登場人物のリアクションが重視されている。安易な作りといえば、その通りではある。しかし、不良少年の学園生活をいかに描くか、を目的とした作品のなかで、それがあくまでも主人公の持ち味を際立たせるための手段となっていることが、『頂き!成り上がり飯』の特徴を担っているのである。

 奥嶋のキャリアを振り返るとき、その作品のおおよそは、元々特別なオンリー・ワンではない人間が、ナンバーワンを目指し、それでもナンバー・ワンにはなれないでいるジレンマを、トラジック・コメディに近い手つきで描き出していることがわかる。『頂き!成り上がり飯』も同様であろう。地域の不良が集まっていることで知られる玉森高校に入学した主人公(ケニー)が、モブやエキストラのように学園生活を過ごしたくないと思い、ケンカでトップに立とうとするのだが、実際には三年生のボス(メリケン)に敵わず、地面に這いつくばるしかないのであった。ここから主人公が、どう這い上がっていくのか。過程の意味で「どう」にあたる部分が、つまりは物語を兼ね、手段の意味で「どう」にあたる部分に、つまりはグルメ・マンガのイディオムを借用しているのだ。

 料理に自信のある主人公は、三年生のボスに弁当を褒められたことから、料理の腕前で全校生徒に認められようとするのである。グルメ・マンガのイディオムを借用していることが、殴り合いの多いマンガなのに肩の力の抜けた作風へと繋がってもいる。プロットのレベルでは、以前の作品である『アキラNo.2』に似ているものがある。おそらくは(先に述べたように)元々特別なオンリー・ワンではない人間が、ナンバーワンを目指し、それでもナンバー・ワンにはなれないでいるジレンマを、テーマの一つとして踏襲していることに起因している。

・その他奥嶋ひろまさに関する文章
 『ばぶれもん』1巻について→こちら
 『ランチキ』
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2016年06月23日
 リクドウ 8 (ヤングジャンプコミックス)

 どうして格闘マンガは父殺しのテーマを免れないのか、と思うときがある。たとえば、90年代以降を代表する二つの巨大な作品、板垣恵介の『刃牙』シリーズや猿渡哲也の『タフ』シリーズは、父の脅威は決して越えられないという帰着を得ると同時に物語そのものの方向性に曖昧さが出てしまったし、川原正敏の『修羅の門』シリーズでさえ、最終的には父殺しのテーマに辿り着いていったのである。あらかじめ父殺しを果たしていたのは、たなか亜希夫の『軍鶏』だが、物語の途中で空中分解を見せたのみならず、結局のところ、父の束縛に苦しむ少女の闘争を主人公が代行するといった展開から破滅と似たエンディングへ向かうこととなったのであった。近年でも遠藤浩輝の『オールラウンダー廻』や太田モアレの『鉄風』など、必ずしも父殺しのテーマを逃れていない作品を挙げられる。後者においては、引きこもりとなった兄の存在が家父長の役割を兼ねているといえるだろう。

 狭義ではボクシング・マンガになるのだけれど、広義では格闘マンガに入れられる松原利光の『リクドウ』も、やはり、父殺しのテーマと無縁ではないことは、1巻の段階で明らかだった。なにせ、父親の自殺、そして、母親の恋人(要するに義父のポジションに近い人物)の殺害を、物語の出発点にしているのである。もちろん、ボクシング・マンガの歴史を振り返るなら、ちばてつやの『あしたのジョー』以来の孤児の系譜を反復しているわけでもある。『あしたのジョー』と『リクドウ』の年月の開きのあいだに、同じく父の不在を師匠にあたるトレーナーが肩代わりしているタイプの作品である森川ジョージの『はじめの一歩』を置いてみるとき、両者の相違あるいは類似は、よりはっきりとするであろう。なぜ父が失われているのか。60年代から70年代にかけて描かれた『あしたのジョー』と90年代を舞台に描かれ続けている『はじめの一歩』と2010年代に描かれ出した『リクドウ』とでは、背景がまったく異なっている。これを各々の時代性の反映と換言しても良い。反面、『リクドウ』における血と汗とをない交ぜにした青春の暗さには『はじめの一歩』よりも『あしたのジョー』と共通するところがあるのだ。

 自分を認めてくれない者といかに向き合うか。父殺しのテーマに通じていくような抑圧のイメージは、『リクドウ』の主人公、芥生リクにとって序盤の最大のライヴァル、兵動楓のモチベーションを支配するものでもあった。それがリクとリクをボクシングへと導いた所沢京介の関係では、自分を認めてくれた者といかに向き合うか、の図式に反転させられている。さらに付言するのであれば、自分を認めてくれない者といかに向き合うか、もしくは自分を認めてくれた者といかに向き合うか、という問いかけは、自覚していようと無自覚であろうと『リクドウ』の登場人物のおおよそに内蔵されている。この意味で物語の支柱にほかならない。7巻と8巻に渡り、繰り広げられてきたエドガルド・ガーベラとの対戦を通じ、ヒロインである苗代ユキとリクの関係に確かな変化が生じた。かつてリクが預けられていた施設の職員がそうであったように、女性の存在が登場人物たちに何かしらの影をもたらしていることも『リクドウ』の特徴の一つなのである。
2016年06月12日
 聖闘士星矢EPISODE.Gアサシン 7 (チャンピオンREDコミックス)

 多分、『聖闘士星矢』のデスマスクのせいで蟹座のイメージを悪くしてしまった人間は少なくはないのではないか。その汚名を返上するときがきた。もちろん、『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』(手代木史織)のマニゴルドによって、その地位は随分と回復したには違いない。しかし、決してデスマスク自身の失墜をどうこうするものではなかった。それがまさか、デスマスク自身が本人と蟹座の名誉を挽回するような活躍を見せてくれる。『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』(岡田芽武)の7巻だ。

 当初は、円卓の騎士の伝説と『聖闘士星矢』の神話とをミックスすることで怒濤のスペクタクルを起こしていたマンガである。が、ここ数巻では、後者の要素が前者の要素を上回っていくなかに驚愕の展開を生じさせていた。本編の引用がふんだんになることは、外伝の在り方としては確かに正しい。と同時に、やり過ぎだよ、と思わされるところに、もっというなら、原作に対するリスペクトをキープしつつ、スピンアウトもしくは二次創作ならではのセンセーションが過剰となっているところに、間違いなく『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』のアピールが存在していることは、そう、前巻(6巻)における星矢の復活によって明らかであろう。

 再起不能に陥ったはずの本来の主人公、星矢の復活は、車田正美が手掛けている正統な続編の『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』でもいまだ果たされていない以上、ある種のタブーに近い。なぜなら『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』の聖闘士たちは、生きているとも死んでいるともつかない状態の聖矢を救うべく、新たなる聖戦を繰り広げている最中なのである。作品そのものや時代の設定が違うとはいえ、それを本家よりも先にやられては読んでいる方が困ってしまう。結局のところ、聖矢の不在とは、本編完結後の作中の時間軸における最も重要なキーであって、この点は『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』も『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』も同様なのだ。

 しかして『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』は、物語の舞台を時空の狂った世界、それこそ円卓の騎士が現代へと蘇ってくるほどに時空の狂った世界であることの必然として星矢の復活を可能にしている。なぜなのかの具体的な説明がないまま、先代の黄金聖闘士と黄金聖闘士になった紫龍たちの世代とが時間を越えて共闘しうる世界であるならば、何が起きても不思議ではあるまい、という成り立ちをしているのだ。たとえば、ソーシャル・ゲームでは、伝説の英雄や歴史上の偉人がガチャのユニットとして肩を並べることに違和感がない。以前にも述べた通り、そうしたソーシャル・ゲームのシステムと親和であるような発想が『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』の説得力を支えているのだと思う。

 何が起こっても不思議ではあるまい。しかし、ここにきて、またサプライズな登場人物がどんどんと出てくるかよ。一応はサプライズなので、新規に参入してきた他の登場人物の名前は伏せておくけれど、そのうちの一人が、先に挙げたデスマスクにほかならない。

 ああ、残酷なる蟹座の黄金聖闘士よ。その本質にアレンジは加えていないながら、新しい角度から矜持とでもすべき部分を掘り出すことで、デスマスクのイメージをアップデートするに至っている。いや、前身にあたる『EPISODE.G』の段階で既にデスマスクは存在していたが、ここでは悪質な彼をよく知る氷河との対峙を通じ、単なるヒールのそれにとどまらない表情を覗かせているのだ。そんなのデスマスクじゃねえよ、という否定ではなく、こんなデスマスクを見てみたかった、と頷かされるものがあるのは、つまり「もしも」の可能性を十分に再現しているためであろう。「もしも」の可能性を十分に再現することが、すぐれたスピンアウトあるいは二次創作にとって必要不可欠な条件だとしたら、それを満たしているのである。

 その「もしも」の可能性を十分に再現するような手つきは、デスマスクのみならず、あの黄金聖闘士にも本編とは一線を画した表情をもたらしていく。シュラをして〈あれは… 俺が… 討てなければ成っていた男だ〉と「もしも」の可能性を示唆された対立教皇、そして、混沌女神(カオスアテナ)の降臨は、以前にも増して驚愕の展開を予感させる。

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『聖闘士星矢 EPISODE.G』
  20巻について→こちら
 17巻について→こちら
  15巻について→こちら
  0巻について→こちら 
  14巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら