ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年04月19日
 午前0時、キスしに来てよ(3) (講談社コミックス別冊フレンド)

 映画化もされた『近キョリ恋愛』では、男性教師と女子生徒のラヴ・ロマンスを。続く『きょうのキラ君』では、難病と密接なラヴ・ロマンスを。といった具合に、少女マンガにとって正統的であるようなモチーフをフォローし続けている一人が(そのユーモラスな作風からすると意外なことに)みきもと凛である。そして、『午前0時、キスしに来てよ』で扱われているのも、スター俳優と優良な女子高生のラヴ・ロマンスであって、やはり、これも正統的であるようなモチーフの一つだろう。

 生真面目な性格のせいか、「おとぎ話のような恋」に憧れるヒロイン、日奈々だが、まさか、そんな乙女らしい夢が叶うなんて、いや、本当に叶ってしまう。日奈々の通っている高校へ、映画のロケのために人気沸騰中のイケメン俳優、綾瀬楓がやってき、ひょんなことから二人きりの時間を過ごしたことで、お互いに相通じるものを感じ取ったのだ。最初は、綾瀬が自分をからかっているだけではないかと疑っていた日奈々だけれど、自分だけしか知らない綾瀬の姿を見、綾瀬もまた、自分を見つめる日奈々のまっすぐな視線に惹かれ、本格的な交際をスタートさせるのである。もちろん、それは世間には隠しておかなければならない関係のはじまりでもあった。

 世間には隠しておかなければならないということは、障害があるということだ。障害の介在していることが、『午前0時、キスしに来てよ』にドラマと展開とをもたらしているのだが、この3巻では、かつて綾瀬が所属していたアイドル・グループのメンバーたちが直接、物語に関わってくると同時に、綾瀬の離脱が必ずしも友好的なものではなかったことが(以前より匂わされてはいたけれど、より濃く)匂わされている。それは綾瀬が日奈々(と読み手)に対し、まだ秘密にしている過去や内面の一部でもある。他方、日奈々も綾瀬(と読み手)に対し、まだ秘密にしている背景や内面がある。打ち明けられずにいる秘密は、おそらく、何かしらの欠落を意味している。欠落を抱えている者同士の結びつきが、『午前0時、キスしに来てよ』のシリアスさ、登場人物の複雑な表情を作り出している点は看過してならない。

 さらにみきもとの作品において注意しておきたいのは、表面上、そうとはアピールされていなかろうと、少女の主体性が絶対の支柱を作り出している点だろう。少女の主体性をいかに描くかは、当然、少女マンガにとって正統的であるようなテーマにほかならないのであって、これは『午前0時、キスしに来てよ』にも適用されている。たとえば、タイトルに裏打ちされているし、コミックスのカヴァーのコピーにある通り、ある種のシンデレラ・ストーリーを標榜している作品なのだと思う。だが、王子様と魔法とが灰かぶりのヒロインに輝きを与えるのだという構成にはなっていない。綾瀬に振り回されてばかりいるので、一見すると受動態に思われかねない日奈々の主体性こそが、実際には彼女の運命と彼女に関わる人間の運命とを大きく転回させているのである。

 孤独は、常に確かな陰影を伴っているものではない。『午前0時、キスしに来てよ』に散りばめられたハイなテンションの明るさは、曖昧に誤魔化されながら、それでも決して消え去ってくれたわけではない孤独を、不意に照射する。のろけであるような甘い甘い場面にも、はっとさせられる瞬間がある。

・その他みきもと凜に関する文章
 『きょうのキラ君』
  9巻について→こちら
  5巻について→こちら
 『近キョリ恋愛』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『17歳』について→こちら 
2016年04月11日
 AIの遺電子 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 心は何に、そして、どこに宿るのか。こうした問いには、それが一定の普遍性を持っているがため、胸を衝かれるものがある。根拠になりうるほどの根拠はなかろうと、心は必ずや存在するという思いなしの上に我々の生活が成り立っているのだと感じられる場面は決して少なくないのである。

 山田胡瓜の『AIの遺電子』は、ヒューマノイドが人権を得た未来、主にヒューマノイドの治療に当たっている医師、須堂が立ち会ってきた様々なケースを描く。オムニバスの形式で編まれたマンガだ。AIに人格は認められるのか。これはマンガに限らず、SFの小説や映画に古今東西からあるテーマだろう。また、医師と患者の苦悩をオムニバスの形式に編んだ作品ということであれば、その多くがヒューマニズムに対するアウフヘーベンを内包しながら、現在もあまた登場している。スタイルについて、目新しさのみで判じることはできない。が、双方の要素を、おそらくは最良の形で結束させているのが『AIの遺電子』だと思う。

 心が存在することの不確かさをベースにしたマンガであるからか、安易な感動とはいくらか距離を置いたエピソードが並んでいる。ドライな選択や結末に、ああ、と切なくさせられるエピソードもある。だが、選択や結末がどうであるより、その選択や結末に至った逡巡のなかに、不確かなもの(本質的には証明不可能であるはずの心の存在)の確かさが導かれているのである。

 とりわけ、この1巻に収められた3話目には、はっとさせられる。とある少年が大切にしているクマのぬいぐるみ、簡素なプログラムの入ったロボットの修復を須堂に頼むのだったが、修復されたことでぬいぐるみは、それはつまり、中古で買われてきたぬいぐるみだったのだけれど、以前の持ち主のデータと現在の持ち主の少年とを混同してしまうようになるのであった。ぬいぐるみの混同は、短いストーリーに対し、何層ものレイヤーの重なり、解釈の幅を持ち込んでいる。心はどこに宿るのか。こうした問いは、その人間にこの世界はどんな見え方をしているのかを問うものにもなる。ぬいぐるみ、少年、少年の母親のトライアングルは、家族や死のイメージに繋がっていくものでもある。

 さしあたり、モッガディートやMICHI等の単語の指しているところが具体的ではないところを含め、謎めいた須堂のプロフィールは、『AIの遺電子』の全体にとっての伏線をなすものであろう。ときおり覗かせる憂いや笑みは非常に印象的だ。が、現段階では、患者たちにもたらされる逡巡にこそ、物語の重みはかかっている。