ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年03月22日
 暁の暴君 1 (少年サンデーコミックス)

 1月31日にNHK-BS1で放送された「ぼくらはマンガで強くなった」の小林まことの回でも指摘されていたように、柔道マンガが『柔道一直線』における格闘マンガの延長線上ではなく、スポーツ・マンガの枠内で扱われるようになった(扱われることが主となってきた)のは、浦沢直樹の『YAWARA!』や小林まことの『柔道部物語』が描かれた80年代の頃だろう。重なった時期、河合克敏の『帯をギュッとね!』というヒット作もあったけれど、以後、柔道マンガの本流はスポーツ・マンガとしてのそれであると認識されるのが一般的になったのではないかと思う。

 さて、伊織の『暁の暴君(タイラント)』の1巻である。たとえば、同じく『週刊少年サンデー』に連載されていた『帯をギュッとね!』と比べたとき、『暁の暴君』は、スポーツ・マンガというよりは格闘マンガの路線に近いと感じられる。スポーツ・マンガとしての柔道マンガとは、おそらく、オリンピックや実在の大会に挑むことに作品のフレームを合わせたようなマンガだと簡略しても構わない。しかし、『暁の暴君』の場合、作中の人物や団体のフィクション性が極めて高い。それは、とある組織のトップが日本の柔道界を牛耳り、私物化しているという設定に顕著だといえる。

 一方、柔道は、格闘技であるべきなのか。スポーツであるべきなのか。果たし合いであるべきなのか。エンターテイメントであるべきなのか。これらの問いを作品そのものが内包しているのであって、各々のテーマを複数の登場人物に分け与え、試合の形式において互いに競わせることで物語は動かされていくのである。天才型の主人公がヒールのように振る舞っている点は必ずしもトリッキーではないけれど、はったりとして生きているし、1話目の段階で主人公の目的と敵対関係とをきちんとプレゼンテーションできているのも、掴みとして不足がない。
2016年03月20日
 コハルノオト(1)(プリンセス・コミックス)

 藤田麻貴の『コハルノオト』の1巻についていうなら、一話一話はえげつないともとれるエピソードであるにもかかわらず、総体的には雰囲気の良いマンガに仕上がっているように思われるし、おそらくはそれが作品の特性になっているようにも思う。

 人一倍真面目で働き者だが、昔から災難を呼び寄せてしまう体質(?)のせいで以前の職場を追われたヒロイン、室田小春は「悩み相談」の看板を掲げる大きな屋敷に住み込みで雇われることになるのだった。雇い主の青年、南方慧は一見すると爽やかだけれど、性格に難があり、実は他人の感情を匂いで判断できるのだという。

 依頼主が持ち込んできた事件を慧と小春の二人が次々と解決していく。これが基本のプロットであって、ラヴ・ロマンスであるよりは、サスペンスの色合いが強い。また、徒手空拳のヒロインが踏ん張り、周囲に影響を及ぼすというのは(作中の年齢層は少し高めに設定されているが)藤田の作品にお馴染みのパターンであろう。

 先に述べたとおり、一話一話に描かれている事件は、決して心穏やかなものではない。派手ではない。地味なほどにステレオタイプである分、ちょっとした弾みで魔の差してしまうことが、いかに卑近であるかをうかがわせる。

 人間には裏の顔がある。誰もが嘘をつき、騙す。それが慧の特殊な能力を通じ、浮き彫りにされるテーマであり、物語における起承転結の「転」である。しかし、あくまでも〈この世界は / 良心とか思いやりとか / そういうやさしいモノでできていると信じていたいんだ〉と願ってやまない小春の存在が「結」の部分に、明るいイメージを与えているのだ。

 多少大げさにいうのであれば、『コハルノオト』において一話一話のエピソードに展開されているのは、人間の善良さと邪悪さの対立、対決だと思う。そして、善良さが勝利することにこそ価値があるのだとするような仮定形を、小春と慧の二人は、ちょっとずつであろうと手応えのなかで確かにしていっている。

 そこに作品の特性が生じてもいるのである。

・その他藤田麻貴に関する文章
 『楽園のトリル』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
2016年03月06日
 ものの歩 2 (ジャンプコミックス)

 現在、競技マンガの少なからずが、まるでその競技にトラウマの解消策を見出そうとしているかのような描き方をしてしまっている。おそらくは主人公やライヴァルの暗いプロフィールを掘り下げることで何かしらのドラマを生み出そうとする安易さと悪習のせいであろう。しかして、それは健全な精神は健全な肉体に宿る式の古い建前とどこがどう違うのか。既に方法論が一周したがゆえの不自由さに退屈を覚えるときがある。スポーツ・マンガに限定した話ではない。将棋を題材にした池沢春人の『ものの歩』も同様にトラウマの解消策を物語の内側に抱え込んでいるのだ。ほとんど偶然に将棋と出会い、プロの棋士を目指しはじめた主人公、高良信歩のモチベーションは、漏れなくトラウマとワンセットになっているし、この2巻で信歩と対局を繰り広げている天才ゲーマー、相楽十歩にしても心に傷を負った過去を免れてはいない。と、批判的な旨を述べている風だが、そうではない。にもかかわらず、熱くなるものを感じられるのはなぜか。それを重要視したいのであって、やはり、男子三日会わざれば刮目して見よ、というテーゼこそが少年マンガにとっての大きな魅力にほかならないことを思い出させてくれるのだ。信歩は、天才というよりは努力型の人間である。たゆまぬ努力が無駄に終わることなく、見事な成果へと結びついていく。そこでしか得られないカタルシスと一致しており、個性の面でいえば、とりたててチャーミングな主人公ではないかもしれないけれど、凡庸さのなかに隠された可能性が芽吹き、花開く瞬間を体現している。
2016年03月05日
 トラビスといっしょなら(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 馬鹿も元気いっぱいに描いたら、なんだか不幸には見えないぞ、というのも、貧乏も元気いっぱいに描いたら、なんだか不幸には見えないぞ、というのも、ある種のトリック(詐術)にすぎない。わかっていながら、中田あもの『トラビスといっしょなら』を読んでいると幸せな気分になってしまうのだから、いけない。題名だけで捉えるならば、まるでトラビスというペットとのほのぼのした生活をイメージさせなくもない。が、このトラビスとは、ヤンキー的なバッド・センスで描かれた中卒少年のことである。トラビス=虎火守であって、所謂キラキラ・ネームのごとき本名である。トラビスと弟の犬吾、そして、トラビスの恋人である女子高生のみぽちを中心にしたミニマリズムのコメディが『トラビスといっしょなら』に企図されているところなのだ。魅力は、やはり、主人公である三人の幼さや頭の弱さが悪意とは無縁そうな基調を為している点であろう。トラビスが進学を望まなかったのは(勉強が嫌いだからなのもあるが)母子家庭であるがゆえに病弱な母親と小学生の弟のために生活費を稼がなければならないからであり、それはもちろん、思い遣りからやってくるものではあるけれど、不良少年の根は優しい式のおためごかしとは、いくらか距離を置いたもののように思われる。トラビスの無知であること、正しく馬鹿であることが、欺瞞がないこと、文字通りにイノセンスであることを担保しているのだ。だからこそ、犬吾もみぽちもトラビスを放っておけないのだし、頼りにもするのであろう。同様に犬吾やみぽちは、トラビスのイノセンスを映し返す鏡にほかならない。彼ら三人の持ちつ持たれつの関係や彼らが引き起こしていく悶着は、欲望と理性あるいは道徳とが拮抗するなかにのみ存在しうる人間らしさを考えさせる。性質的には下品なギャグでしかないにもかかわらず、おそらくはそこに、なんだか不幸には見えないぞ、という印象が宿らされている。
2016年03月04日
 ReReハロ 9 (マーガレットコミックス)

 階級の異なった男女が、恋愛のマジックを通じ、身分の差を飛び越えていく。これは少女マンガにおいて古くから継承されてきた(一億総中流が語られた年代にあってさえ有効であったし、格差社会が叫ばれる現在なお有効な)ファンタジー、様式、形式美であろう。必ずしも生活が豊かではない女子高生と裕福なエリートの坊ちゃんのロマンスを描いた南塔子の『ReReハロ』も、どれだけ作者が意識しているのかは不明だが、その様式が下敷きになっているといえる。

 ヒロインであるリリコは、父親が営む便利屋の手伝いをきっかけに、広いマンションで一人暮らしをしている他の学校の男子、湊と知り合い、次第に両想いの関係へと進むのであった。いくつもの障害を経、晴れて恋人同士となった二人の、足並みは寄り添うほどに確かだが、それでも性急に事を運ぶことのないテンポが、ここ数巻の魅力だと思う。周囲の人間との関係を含め、前向きに一歩一歩が刻まれることの心地良さが現れているのだ。そして、形式美の必然ではあるのだけれど、きた、というべきか。なぜ湊が家族との折り合いが悪く、一人暮らしをしているのか。初期の段階から暗示されていた重要な案件が、この9巻では展開させられているのである。

 エピソードそれ自体は、やはり、様式として見られるものであって、目新しさを覚えることはない。だが、常にクールであるような湊の孤独と救済をいかに描くか。果たしてリリコのポジティヴなテンションが湊に何をもたらしているのか――リリコのポジティヴなテンションこそが湊にとっての救済であるがゆえに他の誰でもない彼女を選んだのだということ――を、本来は暗いお話であるはずなのに、その暗さの方には引っ張られてはいかない力強さで、きっちりプレゼンテーションできている。そこに『ReReハロ』というマンガの優れている点が同居しているのだ。

 リリコの弟が捨て猫を拾ってくるエピソードには、弟を中心としたサイド・ストーリーのようでありながら、湊とリリコのお互いに信頼しきった姿がよく出ている。カップルがただいちゃついているだけのシーンにさえ、作品を好印象にさせるような輝きが備わっている。

 1巻について→こちら
2016年03月03日
 隠密包丁〜本日も憂いなし〜 3

 今やグルメ・マンガは主流である。しかし、そのリアリティの質は、ここ数年で大きく様変わりしているように思う。ここでいうリアリティの質とは、食べること(料理を作ること)をブリッジとし、いかなるライフスタイル(健康や流行を含めた生活様式)を提示するかにあると考えられたい。

 食は文化であるとしよう。その文化を手段として使用し、ある場合には目的として設定し続けることで、その文化そのものが再構築される。こうした図式をグルメ・マンガは内蔵しているとしよう。このとき、綿密な取材なり作者の思想なりが、作品の方向性を決定づけることがある。だが、現在では必ずしも綿密な取材や作者の思想を必要とはしない(もしくはアピールしない)作品が目立ちはじめているのだ。

 たとえば、『ダンジョン飯』や『だがしかし』のヒットを念頭に置かれたい。他方、あれだけ支持された『美味しんぼ』が極端に評判を落としてしまったのはなぜか。無論、一般的には『美味しんぼ』における綿密な取材なり作者の思想なりが誤っていたという見方もある。しかし、もしかしたら綿密な取材なり作者の思想なりを作品と合致させる式のフォオーマットにガタがきているのではないか。もはや、そのようなフォーマット自体にリアリティはなく、説得力を持ちえなくなったからなのではないか。

 以上は余談にすぎないが、少なくとも「食べログ」的な情報や「クックパッド」的なレシピに対抗しようとしているグルメ・マンガと「食べログ」的な情報や「クックパッド」的なレシピとは異なったベクトルを持ったグルメ・マンガとでは、後者の方にブームの可能性と盛り上がりを感じられる気がするのであった。

 料理人を主人公にした『蒼太の包丁』『ハルの肴 両国居酒屋物語』(どちらも末田雄一郎が原作)や近代文学の小説家と食とを題材にした『文豪の食彩』(原作は壬生篤)等、この手のジャンルでポジションを築いている本庄敬の『隠密包丁〜本日も憂いなし〜』(やはりグルメ・マンガのシーンでよく知られる花形怜が原作)は、幕末を舞台とした時代劇となっている。

 戦国時代や江戸時代のライフスタイルに着目したグルメ・マンガは決して珍しいものではないけれど、どう歴史が動くかというより時代劇ならではの平坦な日常と人情話に厚みを持たせている点が『隠密包丁〜本日も憂いなし〜』の特性であろう。

 宮村惣右衛門の本職は隠密だ。素性を隠し、一膳茶屋の料理人を勤めながら、江戸の町に不穏な動きがないかを探っている。剣の腕も立つ。料理の腕も立つ。欠点があるとするなら、人柄が良すぎること、そのために悪人であろうと斬ることができないことである。このやさしい主人公が、己に与えられた使命と持ち前の親切心から様々な事件に首を突っ込み、平和な解決に導いていく姿を『隠密包丁〜本日も憂いなし〜』は描いている。

 どう歴史が動くかは『隠密包丁〜本日も憂いなし〜』の主題ではないと先に述べたが、この3巻では若かりし日の近藤勇が出てくるし、そもそも惣右衛門の上司は「遠山の金さん」として有名な遠山景元であって、徳川家慶の難題に関わるなど、歴史を参照した上でのIFを多分に含んでいる。とはいえ、あくまでも本作の魅力は、これにて一件落着で結ばれるような時代劇の楽しさとともにある。副題に置かれた「本日も憂いなし」の平穏無事であることこそが主題となっているのである。

 それにしても、だ。作品の成り立ちから、チャンバラは必須なのだけれど、本庄の描く登場人物の骨格がしっかりとしたアクションは、なかなかの見栄えがする。これまでの作品からも明らかなように、料理の場面も実にしっかりとしている。制作には手間暇がかけられているはずなのに、構えずページをめくれてしまえるあたり、ちょうどテレビ・ドラマの時代劇を観ているみたいでもある。

・その他本庄敬に関する文章
 『ハルの肴』1巻について→こちら
 『蒼太の包丁』
  41巻について→こちら
  33巻について→こちら
  30巻について→こちら
  25巻について→こちら
  24巻について→こちら
  22巻について→こちら
  20巻について→こちら
  18巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
2016年03月02日
 Jesu / Sun Kil Moon

 3月1日、会場の渋谷クアトロは満員ではなかった(正直な話、フロアには空きの方が目立ったぐらいだった)が、それでもJESU / SUN KIL MOONの来日公演は、紛れもなく一見に値するものであった。ライヴでは、ドラムに元SONIC YOUTHのスティーヴ・シェリーを迎え、ある意味でスーパー・グループの体を為していながら、フロントマンとして全体の指揮を取ったマーク・コズレックの独壇場といった印象である。と同時に、マークが声を発すれば、それがすなわちSUN KIL MOONであり、ジャスティン・ブロードリックがギターを爪弾けば、それがすなわちJESUとなることを、あらためて体感させられる。これはもちろん、両者の初のコラボレーションである『JESU / SUN KIL MOON』において既に果たされていた証明にはほかならない。

 JESUとSUN KIL MOONのコラボレーションがいかなるものか。ああ、マーク・コズレックの、言葉数が多く、エモいというよりはリリカルなヴォーカルと、ジャスティン・ブロードリックの、ヘヴィでありつつ、アンビエント・ミュージックのムードで響き渡るギターとが、抑鬱的だが、しかし、かすかな光のなかに希望を覗き見てしまう、あたかもそんな情景を描き出している。スロウコアあるいはサッドコアのハシリとして知られる元RED HOUSE PAINTERSのマークが、何かしらのストーリー性を持ったリリックに込めていくもの、GODFLESHのゴツゴツとしたインダストリアル・メタルの遥か遠方へと達したジャスティンが、ディストーションとメロディアスなフレーズに込めていくもの、どちらにも共通しているのは、おそらく、体温のイメージである。昼下がり、窓際のカーテンの作り出す影が揺れていることに、どうしてか感じてしまう不思議なあたたかさに喩えても良い。無条件で絶対的な幸福とは異なる。むなしさと背中を合わせ、手探りするうちに指先でわずかに触れた(それでいて確かな)喜びを思い起こさせる。アルバムの冒頭を飾った「GOOD MORNING MY LOVE」と2曲目の「CARONDELET」に、今回のコラボレーションの最良のところは凝縮されているだろう。続く3曲目の「A SONG OF SHADOWS」は、正しくJESUをバックにしたSUN KIL MOONだといえる。

 SLOWDIVEやLOW、MODEST MOUSEのメンバーがゲストで参加しているというインフォメーションは、その手のファン層からすれば、確かに豪華だけれど、核となっているのは、あくまでもマーク・コズレックのヴォーカルであって、ジャスティン・ブロードリックのギターだ。3時間に近いライヴでは、先に述べたとおり、マークがバンドのマスターを務めていただけに(アドリブや長いMCを含め)SUN KIL MOONの色合いが、やや強めであったが、あれほどまでに笑顔を見せるジャスティンは、GODFLESHでもJESU単体でも、なかなかお目にかかれないものである。コラボレーションの成功や居心地の良さをうかがわせる。少なくともあの場にいた人間としては、BLACK SABBATHの「WAR PIGS」のさわりから「A SONG OF SHADOWS」へと雪崩れ込んでいくシークエンスの美しさは、最高だったな。JESU / SUN KIL MOONの何たるかを知った気がし、感動すら覚えてしまったのであった。

 JESU『ASCENSION』について→こちら
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2016年03月01日
 アダムとイブ 1 (ビッグコミックス)

 山本英夫は『おカマ白書』の頃から余裕のない人間(臆病な人間)を中心的に描いてきたのではないかと思わされるときがある。しかし、自身は原作に回り、池上遼一とタッグを組んだ『アダムとイブ』の1巻を読むと、余裕のない人間(臆病な人間)の過剰なアピールは、山本の強迫観念を前面に出しているかのような画の描き方とのマッチングによって生じていたところが大きかったのだと気づかされる。

 そのクラブでは特殊な能力を持ったヤクザたちの密会が開かれていた。彼らの素性がばれないようにホステスは目隠しをされている。真ん中の席に座り、スメルを呼ばれる男は言った。〈俺たちは「影」であり「裏」であり「秘密」に撤しなければいけない。決して姿を現してはいけない。決して姿を見せてはいけない。決して姿を知られてはいけない。それはまるで透明人間ばりに、です…〉と。

 だが、まさか。自分たちが透明人間の襲撃を受けるとは想像すらしなかっただろう。正体が不明=姿の目視できない男女二人組の凶行に突然さらされ、ヤクザたちは次々と命を落としていくのである。果たして密室状態となった一室に何が起こっているのか。不可思議な状況に陥ったヤクザたちだったが、一切臆することなく、特殊な能力を通じ、珍妙な侵入者に反撃を加えようとするのだった。

 山本の作品を踏まえるならば、『殺し屋1』と『ホムンクルス』のミックスに近い成り立ちをしている。フィジカルとメンタルの限界値が暴力という名の計測器にかけられることで明るみとなり、危機的な場面と展開とが作られていくのだ。他方、池上の画が作品にもたらしているのは、危機的な場面や展開に見舞われながらも貫禄を手放さない姿が狂人を彷彿とさせうる、そのイメージである。

 ある種のトラウマに囚われた者が進んで破滅に向かっていくかのような予感は、山本の作品に顕著なものであって、それはびんびんに張り巡らされている。実際、オブセッションに追い詰められ、死に飛び込んでしまうヤクザも出てくるのである。ひとたび仮面を剥がされれば、余裕のない人間(臆病な人間)の正体が隠されているとする際、そこからは『のぞき屋』や『ホムンクルス』の残像を得ることもできるだろう。

 しかし、現時点では(としておくけれど)いかにも池上遼一の主人公のタッチで描かれるスメルには、そのような弱点をにおわせないだけの貫禄がある。

 たとえば、磨き抜かれたガラスとダイヤモンドは、一見すると区別がつかないにもかからず、強度に圧倒的な差異を存在させている。こうした真偽の埋没してしまう可能性をエキセントリックな心理の源泉へと置き換えることこそが山本の作品にかかっているプレッシャーだとするのであれば、『アダムとイブ』におけるスメルには、確かにエキセントリックな心理を覗かせはするものの、ダイヤモンドの強度のような凄まじさを今後も崩さないのではないかと信じさせられるのだ。

 スメルのカリスマの堅牢さは、池上の強迫観念に物怖じしないかのような画の描き方からきているところが大きい。もちろん、スメルが『殺し屋1』の垣原と同様、いずれペルソナの敗北を迎えてもおかしくはない。だが、この段階では正体が不明の敵と無敵の超人の非情なバトルがスリリングに繰り広げられている。

・その他池上遼一に関する文章
 『SOUL 覇 第2章』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『覇 -LORD-』
  19巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら