ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年01月27日
 熱風・虹丸組  6巻 (コミック(YKコミックス))

 このマンガは一体何なのだ、と思わざるをえない。もはや90年や00年代におけるヤンキー・マンガの文法を逸脱しており、比較すべきは、不良少年をベースにしながらもリアリティを度外視していった70年代の『男組』や80年代の『熱笑!! 花沢高校』、『ヤンキー烈風隊』あるいは車田正美や宮下あきらなのではないか、という気がする。しかし、それが単なる時代錯誤ではなく、大変魅力的なアトラクションになっていることに驚きを覚えるのだった。桑原真也による『熱風・虹丸組』の6巻である。

 所謂ヤンキー・マンガの現状についていうなら、自伝的な見栄っ張りと神話的な権力闘争の二種が大きな潮流となっている。たとえば、山本隆一郎の『元ヤン』や高橋伸輔(原作・藤沢とおる)の『SHONANセブン』、伊藤龍(原作・塚脇永久)の『蟻の王』などを後者に区分することができる。伝説と同義であるようなレガシーを巡って、不良少年がバトルに没入していく式の構図が共通しているのである。井口達也のシリーズに代表されるような前者は、00年代からのトレンドでもある。そして、2010年代になり、後者の方向性を活気づける端緒となったのは、おそらく、この『熱風・虹丸組』であろう。

 フェイクなヒストリーを題材にしているという意味では、前者も後者も同様だが、物語の派手さやスケールのでかさを見るのであれば、やはり、神話的な権力闘争を描いている作品の方に分がありますね、ではある。いやはや、実際、『熱風・虹丸組』における壮絶なバトル、バトル、バトルを前に、リアリティがねえよ的な批判を述べることは正しいのだけれど、それを無粋だとし、ねじ伏せてしまうほどの勢い、振り切れたスウィングを感じられるのだ。大体、クライマックスで命を落としたはずの登場人物が別のクライマックスに颯爽と現れる。あのパターンを、ここまで堂々とやってのけているマンガが、今、どれだけあるというのか。

 必殺技の応酬と主人公のサイドの登場人物の死とが、ひたすら繰り返される。6巻は、これまで以上にバトルとポエムを満載にしており、遠からずマンネリズムに陥るかもしれないことを伺わせもするのだったが、しかし、一個の目的に突き進んできた物語とカリスマを持った登場人物のラインナップとが、必要十分に達することで、ジャストに噛み合ったカタルシスを同時に成立させている。最大のライヴァルが味方につき、より凶悪なライヴァルに挑まなければならない、という強さのインフレーションは既にはじまっているものの、ギリギリのラインで物語上の必然を持たせられているのだ。

 なぜ、この登場人物が、こう動くのか。いかなる作品であれ、それは積み重なったプロセスに暗示されている。『熱風・虹丸組』とは、ポジティヴ馬鹿である虹川潤が他の不良少年を感化していくプロセスにほかならない。なぜ、狗神塔馬も美剣號も卯月倫人も咲崎翼も四騎森槐も、さっさと身を引いてしまえば無事で済むような場面に、生き様を賭けてしまうのか。その理由は、ばしっと決まった見開きのカットと辞世の句とも取れるポエジーに、くどいぐらいアピールされている。問いは必要ではない。
 
 5巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『疾風・虹丸組』第1巻について→こちら
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2016年01月24日
 真マジンガーZERO vs暗黒大将軍 8 (チャンピオンREDコミックス)

 神はサイコロを振らないという。偶然はない。必然しかない。それでも。前巻(7巻)のラストにおいて、兜甲児は必死の抵抗を試みる。〈でも俺は違う 最後まで足掻く!!! サイコロをふらせろ〉と。〈勝負させてくれ!!!〉と。〈どうも何もない 戦うんだよ! ちょっとの間 神様は目をつぶってくれてりゃあいいんだ!!!〉そう、要求するのであった。

 無限に繰り返されてきた破滅を防ぐべく、いよいよ最後の決戦の幕が開く。『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』の最終巻(8巻)である。いや、これはしかし。おそらくは傑作になりえたマンガであったろう。だが、もしかしたら問題作とも取れる方向へと舵を切った印象になった。作者(田畑由秋・余湖裕輝)の判断は、賛否両論に分かれるものかもしれない。とはいえ、並行世界やループものにかかるメタ・フィクショナルな認識が、ここまで一般化された現在に共鳴しつつ、その可能性と限界とをきっちり手応えのなかに収めていることは間違いない。

 我々の世界が、他にもありえた筋書きやそこに至っていく分岐を多数、ア・プリオリに含んでいるのだとすれば、今このときは、神がこしらえた二次創作の一つにすぎないのではないか。こうした仮説を前提にする際、では、あまたある二次創作の一つの一部にすぎない我々が、作者である神や並列している他の二次創作に関与することはできるのか。サイコロを振らないはずの神を前にした兜甲児の必死の抵抗は、以上のような問いを肩代わりしているといえる。当然、論理的には不可能と見なされるだろう。重視されたいのは、それが不可能であったとしても、トライするだけの意味は必ずやある、と信じ抜く一個の人間の姿が、熱量の高いドラマを生んでいる点なのであって、そのドラマは、やがて、人間は神によって表されたものだとされる反面、神こそが人間によって想像されたものなのではないか、という逆転を導いてくるのである。

 前作にあたる『真マジンガーZERO』と合わせ、『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』自体が(公式の)二次創作みたいなものである。あるいは『真マジンガーZERO』が、オリジナルの『マジンガーZ』をヴァージョン・アップ(今風にいうならリブート)した作品であるとしたら、『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』は、『真マジンガーZERO』をさらにヴァージョン・アップした作品でもある。無論、作中のグレートマジンガーは、マジンガーZをヴァージョン・アップしたマシーンにほかならない。はたまた、マンガやアニメのジャンルでは、『マジンガーZ』から派生し、パイロット搭載型のロボットを題材にした作品がいくつも誕生した等々。これらの視点を盛り込みながら、兜甲児とマジンガーZEROの対決は、未曾有の事態を招き入れていく。

 正直なところ、シリアスさの極まった展開なのに、アンパンを食べる駄洒落が物語を大きく動かすためのキーとなっているあたり、ちょっと鼻白むものがある。最高にヒートしたテンションを返せ、と思わざるをえないのだけれど、それはコメディやサスペンスにかかわらず、リプレイをモチーフとした様々な作品のパターンを参照し、一つにはギャグの形として導入した(換言すると、リプレイをモチーフとした作品はサスペンスばかりではない。コメディにまで及んでいるマナーをも集積し、統合しようとした)結果なのだと受け取っておきたい。

 そして、まさか。並行世界やループものにかかっているメタ・フィクショナルな認識と二次創作の概念を基礎としたメタ・フィクショナルな認識の混在が、テレビ・ゲームの『スーパーロボット大戦』を連想させるような局面を、物語のなかに召還させるのだ。

 確かに『グレンダイザー』とのクロスオーヴァーなど、これまで他の永井豪の作品の引用は見られてきた。しかし、それがあくまでも『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』という枠組みを再確認するための方便であったとしたら、ここでは『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』という枠組みの外側に目を向けさせるための逸脱となっている。兜甲児の言葉を借りるならば〈…俺の心が繋がっている… 過去か 未来か 並行する宇宙なのか いや もっと別の全く違う世界…… マジンガーZEROが知ることのない世界との架け橋 それこそが俺が最後に作った光子力エンジンなんだ!〉こう力説されてはいる。他方、光子力とは、理系もしくはSFのロジックに依拠してきたはずなのに、文系もしくはファンタジーのレトリックにスライドさせられてしまっている(かのように感じられる)ことが、問題作かもしれない理由の一端となっているのである。

 永井豪の作品のみならず、他のマンガやアニメの引用が〈想像力がついていけないのか 俺にも光にしか見えないぜ〉とぼかされているのは、それを作中のレベルで認知できないからである以前に、著作権の問題にすぎないのではないか、という疑問の差し込まれる余地が残った。いや、生まれてしまっているのである。と同時に、オリジナルの『マジンガーZ』に帰属していた固有性も薄まってしまっているように思われる。兜甲児と剣鉄也の揃い踏みが、かつてのハイライトほど燃えてこないのは、たぶん、そのためであろう。既に描かれたものは描くことができる。だが、いまだ描かれていないものは描くことができない。こうした境界線をいかに解釈するかで、作品に対する評価も変わってくるに違いない。

 ああ、それでもやはり、プロの戦士であるがゆえに屈託なく死闘を繰り広げてきた剣鉄也のガッツこそが(中盤以降の)最大のフックであったな、という気がする。その活躍は、7巻の段階で、おおよそ終わっていた。地獄大元帥の退場とともに、である。もちろんのこと、『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』は、兜甲児とZEROの物語としてはじまったかぎり、兜甲児とZEROの物語として閉じられるのが、必然ではある。ただ、剣鉄也が図らずも引き起こしてきた偶然の方に、実は作品の本質は正しく示されていたのではないか、と付言したくなるのだった。

 4巻について→こちら
2016年01月14日
 恋について話そうか 2 (フラワーコミックス)

 たとえば、と思う。永遠に続くものなどはないのだとしても、この気持ちがずっと変わらずにあって欲しいと願うときがある。ともすると、藤原よしこのマンガはどれも、そのような願いの、ささやかであるはずなのに、かけがえのないことを綴っているのである。ヒロインの年齢を、以前の作品に比べて、いくらか上の大学生に設定した『恋について話そうか』についても、それは同様であろう。

 立場やイメージ、性格にギャップがある男女のロマンスは、この作者の得意とするところであって、ヒロインである野々村昴とカップルになる桐谷瑠衣の兄との関係には、『だから恋と呼ばないで』等の過去の作品を参照させる部分がある。しかし、お約束である以上に色褪せない魅力を感じさせるのは、若い登場人物たちに訪れる最初の経験と新鮮な感動とを、派手にデコレイトすることなく、むしろ素朴であるほどに切実さの際立っていくような手つきで導き出しているからである。現代的なセンセーションに乏しいかわり、若い登場人物たちの(若いがゆえに)つたないやりとりには、エヴェーグリーンと喩えるのに相応しい適温が備わっているのだ。

 教育学部の美術科に通う昴は、母親の再婚を機に一人暮らしをはじめたのはいいのだけれど、期待と違ったのは、アパートの隣に住んでいるのが、少しばかり意地の悪そうな男性であることだ。しかも、彼は同じ大学の法学部だという。他方、端麗な容姿と優秀な成績から大学でも目立つことの多い瑠衣は、アパートの隣に引っ越してきた昴の、そのおっちょこちょいだが、お人好しな性格に、どうしてか興味を引かれてしまう。からかっているつもりで昴に接していた瑠衣、そして、敬遠しているつもりなのに瑠衣と身近になっていく昴、お互いとも意図せずに恋愛の入口へと足を踏み入れていたのだった。

 昴と瑠衣の恋愛は、大学生だが、まるで中高生のような初々しさを強調している。今どきの子はもうちょっとすれているんじゃない式のリアリズムで鼻にかけない向きもあるだろう。だが、ピュアと換言できるレベルの初々しさが、それまで恋愛を知らないできた二人の最初の経験と新鮮な感動とに、確かな輪郭を与えている点を看過してはならない。全2巻の長さが作者の構想によるものか人気の結果によるものかは不明である。しかし、終わりや別れではなく、あくまでもはじまりを描くことに撤した『恋について話そうか』には、このときの気持ちがずっと変わらないでいて欲しいという願いの、透き通るぐらいに濁りのない趣が、よく出ている。

・その他藤原よしこに関する文章
 『だから恋とよばないで』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『恋したがりのブルー』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  1巻について→こちら