ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2015年12月11日
 藍の時代ー一期一会ー (少年チャンピオン・コミックスエクストラ)

 紛れもなく最高だ。自分がマサミスト(車田正美のファン)の端くれであることを差し引いても、そういえる。以前に述べたときもあるが、マンガ家マンガのブームとマンガ家マンガというだけで無条件に肯定する人間を訝しげに見てしまうタイプの読み手である。後者については、どれだけ好きなジャンルであっても作品毎に質の差はあるだろう、と思うからであり、前者については、同じアシスタントを数十年も雇い続けているマンガ家がプロ・デビューを絶対視するような作品を屈託なく描いてしまうことに業界そのもののねじれを感じてしまうためであった。まあ、素直に楽しめないお前の根性が悪い、ではあるのだけれど、『藍の時代 一期一会』に関しては、否応なしに背筋をぴんと正されるものがある。マンガ史としてはデタラメな点も多いし、真に受けてはいけないようなエピソードもふんだんである。しかし、そのことがネックになっていないばかりか、他に類例がないほどのインパクトを付与しうる原動力となっている。

 大体、全1巻、全8話の長さであるにもかかわらず、登場人物が6人も死ぬ、というマンガ家マンガが他にあるだろうか。いや、ない。こうした反語をただちに引き出してしまうところにこそ、唯一無二の手応えを覚えるのだ。車田正美がまだマンガ家になる以前の、そして、駆け出しのマンガ家になった頃の、青春の爽やかさとはかけ離れた青春の像を『藍の時代 一期一会』は描いている。愚鈍でさえある若者たちの姿に投影されているのは、おそらく、「最後の硬派」というテーマであろう。「最後の硬派」とは、40年に渡る車田の創作においては常にプライオリティを高くして挑まれてきたテーマである。たとえば、それは『男坂』の菊川仁義の活躍や『リングにかけろ2』の香取石松の最期などを通じ、度々明言されていたものでもある。『藍の時代 一期一会』の主人公、東田正巳と少年時代の親友、病弱な小林純一の二人の関係は、『風魔の小次郎』における飛鳥武蔵と妹である絵里奈のそれを、あるいは『聖闘士星矢』におけるフェニックスの一輝とアンドロメダの瞬のそれを想起させる。『風魔の小次郎』や『聖闘士星矢』のようなファンタジーにあってですら、群れをなすことがない飛鳥武蔵やフェニックスの一輝の孤高からは「最後の硬派」のイメージを受け取れるのではないか。かくして、フィクションかノン・フィクションなのかはともかく、車田正美がついに自分自身を直接の題材に「最後の硬派」をアピールしてみせた。これが『藍の時代 一期一会』なのだと思う。

 車田には既に『実録!神輪会』というマンガ家マンガがある。セルフ・パロディをやったり、ギャグ色の濃い作品ではあるものの、実名がばんばん飛び交うところに、ある種の説得性が現れていたわけだが、『藍の時代 一期一会』は『実録!神輪会』と比べ、モデルのいる登場人物の実名に、かなり消極的だといえる。はっきり実名で出てくるのは、本宮ひろ志と壁村耐三ぐらいであろう。大変な無頼漢のごとく描かれるその二名には、一体何が象徴されているのか。たぶん、東田正巳(車田正美)が「最後の硬派」を受け継がなければ、彼らが「最後の硬派」になりえたのかもしれないという生き様である。車田と『週刊少年チャンピオン』の名物編集長として知られる壁村の繋がりは不明だが、実際、本宮は若き日の車田の憧れであった。『藍の時代 一期一会』で、本宮との出会いは、まるで彼の生き様が衝撃であったかのような鮮烈な場面となっている。車田にとって、本宮が最初のライヴァルであり、最大のライヴァルであり、最後のライヴァルであることは『実録!神輪会』のときからまったく変わってはいない。

 先に触れた通り、たくさんの登場人物が死ぬ、という意味で、マンガ家マンガらしからぬマンガ家マンガが『藍の時代 一期一会』である。裏返すなら、それは一期一会を果たしながら「最後の硬派」として車田が生き残ったことを含意している。東田正巳は問う。〈漫画ってのは何だ!?〉と。そして、自答する。〈一千万読者との闘いなんだ!〉と。彼の魂に〈一千万対一!やってやるぜ 〉という火をつける。絶望との闘いでもある。自分自身との決戦でもある。いつ敗れ去ってもおかしくはない。そのぎりぎりの奮闘のまっただなかでも決して失うことのない情熱が『藍の時代 一期一会』のドラマをすさまじく燃え上がらせているのだ。