ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2015年12月23日
 The Boats of the Glen Carrig

 おそらくは世界で唯一といっていい「NAUTIK FUNERAL DOOM」(航海フューネラル・ドーム!)を標榜し続けているドイツ出身のバンド、AHABの通算4作目となるフル・アルバムが『THE BOATS OF THE GLEN CARRIG』である。AHAB(エイハブ)というバンド名が指し示す通り、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』から受けたインスピレーションを出発点にし、前作の『THE GIANT』(2012年)では、エドガー・アラン・ポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』をモチーフとしていたわけだけれど、『THE BOATS OF THE GLEN CARRIG』においては、ウィリアム・H・ホジスンの同名小説を題材に選んでいる。いずれにせよ、海洋の深遠であるようなイメージを、どうサウンドの成り立ちへと変換するか、という部分に本質があることに変わりはない。一貫性がある。

 葬送曲にも似たアトモスフェリック(名状しがたい薄暗さ)は、フューネラル・ドームの大きな特徴であろう。AHABの場合、それを押さえつつ、演奏のスタイルや楽曲の展開にゴシック・メタルやプログレ・メタルに近いものがあって、さらには近年におけるドゥーム・メタルのジャンルに支配的なヴィンテージ色を突出させず、むしろモダンであると受け取れるところが少なくはない。以上の持ち味は、作品を経る毎に洗練されていき、微細でもある叙情性とドラマの明確化をもたらすことになったのだな、と『THE BOATS OF THE GLEN CARRIG』は思わせる。一方、音楽性は異なれどTOOLやMASTODONなどに通じるものもあるのでは、と感じさせるのだった。

 クリーンなヴォーカルのパートは以前にも増しているが、デス・メタルのようなグロウルも(語義矛盾するようだけれど)表情を豊かにしてきている。バックの演奏もまた、ファースト・アルバムである2006年の『THE CALL OF THE WRETCHED SEA』の頃に比べたら、ダイナミズムをはっきりさせたものとなっていて、引きずるようなギターのリフやドローン(持続低音)を愛でたいマニアには物足りなくなったかもしれないし、アンダーグラウンドならではの無骨さが減じたと見られるかもしれない。しかし、一概には、ヤワになった、とはいえない魅力がある。10分に及ぶ楽曲の並んだ大作指向は、相変わらずである。そのなかから劇的とも雄弁とも喩えられるヴィジョンの浮かび上がってくることを何よりとするのであれば、『THE BOATS OF THE GLEN CARRIG』は、到達と呼ぶのに相応しい。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2015年12月16日
 L DK(19) (講談社コミックス別冊フレンド)

 少し前に「壁ドン」という言葉が流行った。本当に流行ったかどうかは知らないが、話題にはなった。当初はインターネットで広く親しまれているジャーゴン(隣室に対するクレームとして壁をドンとすること)の誤用ではないかと指摘されることもあったけれど、メディアや広告などを通じ、壁際に詰め寄りながら異性にアプローチする行為の方を指す向きが、かなり一般化した印象がある。まあ、女性は押しに弱いという陳腐なステレオタイプを応用しているにすぎないような気もするし、一歩間違えたらハラスメントになりかねない危うさを非難することはできる。この「壁ドン」の流布に少女マンガの側から一役買ったとされるのが、渡辺あゆの『L・DK』である。たとえば、オムニバスである『きみと壁ドン』のコミックスの表紙には、まるでその代表格であるかのように渡辺の手がけたイラストが飾られていたりもする。

 渡辺本人が、自分の作品なり作風なりが「壁ドン」の語彙と否応なくセットになってしまうことについて、実際にどう考えているのかはわからない。が、『L・DK』の18巻及び19巻には、上記したような立場に対し、作者なりに何かしらのアンサーを加えようとしているのではないかと思わされるところがある。自信に溢れ、押しが強いことを一切悪びれなかったはずのイケメンさんが、しかし、真から惹かれはじめている女性にはステレオタイプなアプローチが通じず(あるいは用いることができず)戸惑い、衰弱していくかのような姿が描かれているのである。以前にも述べたけれど、18巻から19巻にかけての主人公は、本来のヒロインにあたる西森葵であるというより、彼女の恋人である久我山柊聖の従兄弟、久我山玲苑がつとめていると見なすことができる。葵に好意を抱きはじめていると自覚しつつも、柊聖を気遣うあまり、やるかたない状況に玲苑は陥るのだった。

 そして、それでも葵への恋慕を振り切れないままの玲苑が、ついに柊聖から彼女を奪い取ることを決意する、というのが19巻のあらましである。押しの強さを正義とするのであれば、柊聖にも玲苑にも、葵を押し倒せる機会が与えられている。柊聖ならともかく、玲苑を葵は受け入れないかもしれない(まあ、受け入れないだろうね、と読み手からすると思う)このときに注意されたいのは、要するに「壁ドン」に象徴されるようなアプローチが無効であると男性に意識させる女性の、その気持ちを振り向かせるにはどうしたらいいのかを、葵を真ん中にした玲苑と柊聖の綱引きに垣間見られる点なのだ。まるで玲苑を主人公にしているかのような展開だと先に述べたが、看過してならないのは、葵と玲苑の親密なコミュニケーションを直面する柊聖の視線であろう。

 玲苑は、クールな柊聖の態度を柊聖が持っている余裕だと判断する。ただし、作者の演出と作品の構成は、必ずしも柊聖が余裕をキープしているわけではないことを暗に示すものとなっているのだ。これまでの物語からすると、葵が柊聖以外の相手に決してなびかないことは、ほとんど前提だといえる。(現段階では)葵は玲苑を恋愛対象としてまったく認めていないがゆえに彼とのやりとりに無防備でいられるのである。少なくとも19巻において重要なのは、葵が何を考えているかではない。確かに彼女は自分の将来に考えを巡らすけれど、おそらく、それは今後の展開のために用意されたものであって、ここでのポイントではないだろう。19巻のなかで特に印象的な場面はどこか。よく目を通したら明らかであるように、葵の揺らぎではなく、柊聖や玲苑の揺らぎにカメラのピントは合わさっている。

 玲苑の内面が饒舌なのに比べ、柊聖が何を思っているのかは具体的に描かれない。それは1巻より『L・DK』を『L・DK』たらしめている文法の一つにほかならない。玲苑の揺らぎは、モノローグや表情にいくらでも表されている。他方、柊聖の揺らぎをこれだと指摘できるのは、たぶん、葵と玲苑の手と手がごく自然に触れ合うのを柊聖の視線が捉えている箇所になる。二人きりの寝室で柊聖が葵の手を取るのは、先のシーンの反復であり、強調である。さらにいうなら、「壁ドン」のような強烈なアプローチばかりではなく、もっと静かでやさしいアプローチもありうるのだという可能性と説得力とが、手と手がごく自然に触れ合うシーンには宿らされているのだ。

 18巻について→こちら
 13巻について→こちら
 10巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら 

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
2015年12月15日
 愛のようだ

 長嶋有の『愛のようだ』は、帯に書かれている通りの恋愛小説だろうか。恋愛小説というより、恋愛小説のようなものだと思えるし、いや、恋愛小説の真髄とは、結局、このようなものだとも思える。この場合の真髄とは、誰かを深く愛し、誰かに深く愛されたのイベントではなく、果たして他の誰かとの関係がいかなる動きを自分の心にもたらしたか。その様子を注意深く表していることを指したいのである。

 長嶋の作品のなかでは比較的(あくまでも比較的に)ドラマティックな内容だという意味で『パラレル』や『泣かない女はいない』に近い印象がある。さらに男性が語り手だという意味では『パラレル』の方が近い印象である。直接の関連はなく、おそらくは作者の経験から同一のモチーフが選び取られているからなのかもしれないが、登場人物たちのシチュエーションにはいくらか『パラレル』を彷彿とさせるものもある。いずれにせよ、〈バツイチ、フリーランス、やもめ暮らし〉の〈俺〉に見られた――男女の関係を軸足にした――人間模様が作品の彩りの中心に置かれていく。

 家電に注目したものさえあり、たぶん、凶悪犯罪以外はあらゆるものを題材にしてきた作者だけれど、『愛のようだ』においては自動車によるドライヴという時間に大きな役割が与えられている。何人かが乗り合わせた車中では様々な会話が交わされ、そして、カーステレオからは様々な音楽が流される。この音楽あるいは歌(あるいはその歌詞)の存在もまた『愛のようだ』を支える重要な柱だ。それは個々の場面に付随し、付随に基づいた記憶が別個の場面で回想される。しかして、この回想の手順が、最後の場面に、ささやかできめの細かい哀切を呼び込むことになるのであった。

 作中の時間は断章的に進む。個々の場面はリニアに連結されるわけではない。しかし、それらはあくまでも語り手である一人の人間のなかに実感の束として集積されるものであって、換言するのであれば、そうした実感の総和こそが『愛のようだ』にとっての物語と呼べるものにあたるのである。本来、急ぎ足にであれ、ゆるやかにであれ、時間はとどまることを知らない。だが、ゆるやかな部分にのみ目を向けるとき、それはしばしば停滞と同義であるように認識されうる。一切の移動がなく、景色にも代わり映えがなければ、常に動いている時間のなかを生きているはずなのに、それを忘れてしまいかねない。この忘却を、語り手である〈俺〉の視点は思い出させてくれる。

 小説のおしまいの方に、こうある。〈当たり前に、「起こること」のすべては即、過去の事柄なのだが(略)今がその地続きにいる気がしない〉一方、自動車で移動しているときには〈だってもう、あのときとは景色が違う。あのときも。あのときも〉と確かに理解できる。そして〈そういう風に感じていたいと思うときが、生きていてたくさんある(略)あるけど我々は大抵の場合、車に乗って移動してない〉

 もしも『愛のようだ』が恋愛小説なのだとしたら、〈俺〉の心が他の誰かとの関係にどう動かされたかを教えているからであろう。端的に、それは喪失のイメージに辿り着いていく。しかし、〈俺〉が本当に無くしたものは何か。憧憬なのではないかと思う。気持ちを傾けられる特定の対象であるというより、それを含むことで成り立っていた時間に対する憧憬なのではないか。

 手を伸ばせば、届いたかもしれない。が、手を伸ばさずにいることで、しばしのあいだ美しくあり続けていた憧憬の喪失が〈俺〉の心に悔恨にも似た気持ちを及ぼしているのだという気がする。

・その他長嶋有に関する文章
 『三十六号線』第一話「殺人事件」について→こちら
 『エロマンガ島の三人』について→こちら
 『夕子ちゃんの近道』について→こちら
 『泣かない女はいない』について→こちら
 『いろんな気持ちが本当の気持ち』(エッセイ)について→こちら
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2015年12月14日
 百足 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 そう。これだ。男の子なら、こういうマンガが読みたかった、と思わされる。フクイタクミの『百足 ムカデ』の1巻である。主人公である好漢が、恩義のある姉弟を救うため、100人からなる悪党の集団をばったばったと打ち倒す。プロットを述べるのであれば、本当にそれだけのお話にすぎない。しかし、どうだ。まるで長期連載を視野に入れていないかのようなワン・アイディアの徹底が、怒濤と喩えるのに相応しいスピードの展開を作品に呼び込んでいる。いや、展開らしき展開は(今のところ)一難去ってまた一難、危機に次ぐ危機の訪れのみ、であろう。だが、それが間髪を容れず、巻き起こることに大きな興奮がある。

 もちろん、主人公や彼が打ち倒してく悪党どもに充分な魅力が備わっていなくては活劇そのものの魅力も損なわれてしまうに違いない。この点も短い場面のなかに的確なプレゼンテーションを盛り込むことで見事にクリアーしている。「百手無双流」という武術の使い手として描かれる主人公の馬頭丸は、とにかく強い。そして、100人が100人、個性的なスタイルで殺戮を弄ぶ「百足」の面子は、とにかくやばい。ネーミングからして対になっているのは明らかだけれど、その二つの相反するエネルギーが、くどい回り道を経ることなしに正面からぶつかり合っていく。さらに注目されたいのは、半日も過ぎていないわずかばかりのあいだに瞬間風速的なバトルが次々と繰り返されていることであろう。

 最初から強い者同士が、何の修行もなく、何の休息もなく、何の逡巡もなく、ただただ相手を組み伏せることに終始する。一方、馬頭丸を待ちわびながらも逃げ惑うお泉と田彦の姉弟には、容赦のないピンチが絶えずにもたらされる。この二面の密接な連動が時間の進行(押し寄せるタイムリミット)を代替しているところに、肝を冷やすかのようなサスペンスが生じている。必殺技の応酬だけを見るのであれば、古いタイプの少年マンガにも思える。だが、作品の構成は、現代的な少年マンガの文法に近く、練られている。ルールや根拠のないバトルを満載にしている風でありつつ、特定の条件がスリルを左右するというデス・ゲームの印象をも表に出してきているのである。

 とはいえ、純粋な正義と純粋な悪しか存在しない勢力図に、難解さはまったくない。どちらがどちらを屈するのか。勝敗の行方は、すごい勢いで上がり下がりするシーソーの簡単なアトラクションがなぜか子供心をわくわくさせるのに似た訴求力を放つ。
2015年12月12日
 彼女が灰になる日まで (幻冬舎文庫)

 前作にあたる『彼女の倖せを祈れない』の結末が結末であっただけに(また『彼女の倖せを祈れない』以降、シリーズとは別個の小説をいくつか発表していたのもあって)てっきり、フリー・ライターである桑原銀次郎を探偵役にした物語は完結したものだと思っていたのだが、なんと続きがあった。シリーズの四作目となる『彼女が灰になる日まで』である。

 桑原銀次郎は、とある事件に関わったがために意識不明の重体に陥った。一般的なケースからすれば、半年間も昏睡状態のままでいる彼が目覚めることはないはずであった。しかし、医師である元妻が尽力し、探し当ててくれた病院が良かったのか。それとも人智を越えた何かが作用したのか。文字通り、奇跡的な回復を果たしてみせた。リハビリを経、わずかばかりの障害を残しながらも社会へ復帰するまでになったのだ。だが、自分の妻も銀次郎と同じように蘇生したのだという男が現れたのは、凶兆であったのかもしれない。「その奥さんは、今は?」「死にました。半年前に自殺したんです」そして男は、妻や銀次郎と同じ病院で同じく昏睡状態を脱した後、自殺した人間が他にもいるのだと告げる。「これは偶然でしょうか?」

 自殺は、オカルティックな原因によって連鎖的に起こったものなのではないか。だとしたら、銀次郎も同じように自殺するのではないか。男がそう話すのを信じない銀次郎だったが、信じられないがゆえに真相の究明に足を突っ込んでいくことになるのだ。物語を覆っているミステリのヴェールを簡単に一枚剥がすのであれば、根拠のない現象は根拠がないことこそを根拠に現実として強化される、ということになるだろう。

 浦賀和宏にしては(と留保をつけるが)ポピュラリティを持ったシリーズのなかでも特にサプライズの少ない作品だと思う。しかし、一作目の『彼女の血が溶けてゆく』に最も関連の深い作品でもある。または『彼女の血が溶けてゆく』に端を発したシリーズのエピローグみたいな印象を持つ。なぜなら、銀次郎と元妻である聡美の関係に『彼女の血が溶けてゆく』と同等か、それに近い変化が生じるためである。ハッピー・エンドかだって。まさか。

 ああ、我々がこうだと信じていた世界は、いとも容易く壊される。その痛切に銀次郎は再び身をさらすこととなるのだった。

・その他浦賀和宏に関する文章
 『彼女の倖せを祈れない』について→こちら
 『彼女のため生まれた』について→こちら
 『彼女の血が溶けてゆく』について→こちら
 『女王暗殺』について→こちら
 『萩原重化学工業連続殺人事件』について→こちら
 『生まれ来る子供たちのために』について→こちら
 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
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2015年12月11日
 藍の時代ー一期一会ー (少年チャンピオン・コミックスエクストラ)

 紛れもなく最高だ。自分がマサミスト(車田正美のファン)の端くれであることを差し引いても、そういえる。以前に述べたときもあるが、マンガ家マンガのブームとマンガ家マンガというだけで無条件に肯定する人間を訝しげに見てしまうタイプの読み手である。後者については、どれだけ好きなジャンルであっても作品毎に質の差はあるだろう、と思うからであり、前者については、同じアシスタントを数十年も雇い続けているマンガ家がプロ・デビューを絶対視するような作品を屈託なく描いてしまうことに業界そのもののねじれを感じてしまうためであった。まあ、素直に楽しめないお前の根性が悪い、ではあるのだけれど、『藍の時代 一期一会』に関しては、否応なしに背筋をぴんと正されるものがある。マンガ史としてはデタラメな点も多いし、真に受けてはいけないようなエピソードもふんだんである。しかし、そのことがネックになっていないばかりか、他に類例がないほどのインパクトを付与しうる原動力となっている。

 大体、全1巻、全8話の長さであるにもかかわらず、登場人物が6人も死ぬ、というマンガ家マンガが他にあるだろうか。いや、ない。こうした反語をただちに引き出してしまうところにこそ、唯一無二の手応えを覚えるのだ。車田正美がまだマンガ家になる以前の、そして、駆け出しのマンガ家になった頃の、青春の爽やかさとはかけ離れた青春の像を『藍の時代 一期一会』は描いている。愚鈍でさえある若者たちの姿に投影されているのは、おそらく、「最後の硬派」というテーマであろう。「最後の硬派」とは、40年に渡る車田の創作においては常にプライオリティを高くして挑まれてきたテーマである。たとえば、それは『男坂』の菊川仁義の活躍や『リングにかけろ2』の香取石松の最期などを通じ、度々明言されていたものでもある。『藍の時代 一期一会』の主人公、東田正巳と少年時代の親友、病弱な小林純一の二人の関係は、『風魔の小次郎』における飛鳥武蔵と妹である絵里奈のそれを、あるいは『聖闘士星矢』におけるフェニックスの一輝とアンドロメダの瞬のそれを想起させる。『風魔の小次郎』や『聖闘士星矢』のようなファンタジーにあってですら、群れをなすことがない飛鳥武蔵やフェニックスの一輝の孤高からは「最後の硬派」のイメージを受け取れるのではないか。かくして、フィクションかノン・フィクションなのかはともかく、車田正美がついに自分自身を直接の題材に「最後の硬派」をアピールしてみせた。これが『藍の時代 一期一会』なのだと思う。

 車田には既に『実録!神輪会』というマンガ家マンガがある。セルフ・パロディをやったり、ギャグ色の濃い作品ではあるものの、実名がばんばん飛び交うところに、ある種の説得性が現れていたわけだが、『藍の時代 一期一会』は『実録!神輪会』と比べ、モデルのいる登場人物の実名に、かなり消極的だといえる。はっきり実名で出てくるのは、本宮ひろ志と壁村耐三ぐらいであろう。大変な無頼漢のごとく描かれるその二名には、一体何が象徴されているのか。たぶん、東田正巳(車田正美)が「最後の硬派」を受け継がなければ、彼らが「最後の硬派」になりえたのかもしれないという生き様である。車田と『週刊少年チャンピオン』の名物編集長として知られる壁村の繋がりは不明だが、実際、本宮は若き日の車田の憧れであった。『藍の時代 一期一会』で、本宮との出会いは、まるで彼の生き様が衝撃であったかのような鮮烈な場面となっている。車田にとって、本宮が最初のライヴァルであり、最大のライヴァルであり、最後のライヴァルであることは『実録!神輪会』のときからまったく変わってはいない。

 先に触れた通り、たくさんの登場人物が死ぬ、という意味で、マンガ家マンガらしからぬマンガ家マンガが『藍の時代 一期一会』である。裏返すなら、それは一期一会を果たしながら「最後の硬派」として車田が生き残ったことを含意している。東田正巳は問う。〈漫画ってのは何だ!?〉と。そして、自答する。〈一千万読者との闘いなんだ!〉と。彼の魂に〈一千万対一!やってやるぜ 〉という火をつける。絶望との闘いでもある。自分自身との決戦でもある。いつ敗れ去ってもおかしくはない。そのぎりぎりの奮闘のまっただなかでも決して失うことのない情熱が『藍の時代 一期一会』のドラマをすさまじく燃え上がらせているのだ。
2015年12月10日
 あるいとう 11 (マーガレットコミックス)

 大抵の少女マンガでは、ヒロインと恋人の関係やヒロインと周囲の人間たちの関係とが時間の流れを代替するものになるのだったが、ななじ眺の『あるいとう』の場合、それが非常にスロー・ペースに描かれている。おそらくは作者の狙いであろう。時間の流れを跳ねたり走らせたりするというより、ヒロインであるくこの(同時に周囲の人間たちの)心の移動を、タイトルの通り、一歩ずつ歩いていくかのようなテンポで刻むことが作品のテーマとなっているのだと思う。

 作品の背景には、95年に起きた阪神・淡路大震災が置かれている。その災厄は(近年の作者の活動やコメントを見る限り)2011年の東日本大震災を経由し、再発見されたものに違いない。もしかしたら『あるいとう』における時間の流れは、それが起こった過去から現在までのあいだ(ヒロインのプロフィール)に凝縮されているのであって、あるいはそうであるとするのなら、そのような現在から未来へと進むための一歩をいかに踏み出すか。要するに、そのわずかにしかすぎない一歩(過去という時間の集積を乗り越えようとする最初の、勇気のある一歩)を誠実に示すべく、物語は極めてスロー・ペースに展開されなければならなかったのだ。

 最終巻である。この11巻に証明されているのは、もちろん、ヒロインや周囲の人間たちの変化であり、成長だといえる。しかし、それがどういったものか。具体的に説明するのは難しい。少女マンガのセオリーに則るとしたら、誰と誰がカップルになったとか、誰がどうした進路を得、幸福を掴んだとか、はっきりとした結果が提出されていないせいであろう。登場人物の一人が作品の構造に対し、メタ・レベルからのツッコミを入れる等、ラヴ・ロマンスの定型を逸脱することに作者は自覚的であった。慎重な回りくどさとでもしたい語り口によってもたらされていたのは、強く生きることには何の意味があるのかという問いである。

 ごめん。ありがとう。がんばれ。がんばる。これらの言葉を、気持ちを、過去から投げかけられた者が躓きを踏まえていきながら、同じ言葉を、気持ちを、未来に向けて発せられるようになるまでの足どり。それをちょうど『あるいとう』と表するのに相応しいイメージのなかに落とし込んでみせていた。

・その他ななじ眺に関する文章
 『コイバナ! 恋せよ花火』
  10巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『パフェちっく!』
  22巻について→こちら
  19巻について→こちら
  14巻について→こちら
2015年12月06日
 BUCKLE UP AND SHOVE IT!

 会場は新大久保EARTHDOM、ELECTRIC EEL SHOCKが主催し、KING BROTHERSやGUITAR WOLFなどが登場したMURDERTRUCK TOUR JAPAN 2015の最終日(12月5日)を観た。これまでに何度となくライヴを観てきたものもあれば、初見のものもあったが、どのバンドもそれぞれのスタイルでロックン・ロールのマナーを貫きつつ、ガッツと白熱に溢れるようなパフォーマンスを繰り広げてくれ、燃えるしかねえのであった。そして、ヘッドライナーとしてオランダから招待されたPETER PAN SPEED ROCKだ。一部のファンやマニアにしたら、十数年待ったぞ、ということになるだろう。念願の初来日公演である。実際、トリオ編成とは思われぬ分厚い轟音のロックン・ロールが、何もかもを薙ぎ倒し、正しく爆走していく姿を目の当たりにし、うおおお。歓喜、歓喜の嵐が吹きすさぶ。

 ベテランに近いキャリアを築きながらも決して失われない初期衝動は、そのライヴのシーンを通じ、直に体験できたわけだけれど、もちろん、2014年にリリース(初めての日本盤が今年にリリース)された『BUCKLE UP & SHOVE IT!』にも満載であったことを忘れてはいけない。PETER PAN名義で1997年に発表されたファースト・アルバム以来、通算9枚目となるフル・アルバムである。しかし、枯れた味わいは、ほとんどない。ガレージ・パンクといおうかMOTORHEAD型のロックン・ロールといおうか。スピード、パワー、スピード、スピード、パワー、スピード、パワー、パワー、とにかくスピードとパワーをフルにし、けたたましく掻き鳴らされるサウンドは、サイコビリーやヘヴィ・メタルをも飲み込み、轟音以外の何ものでもない塊へと変化することで、最大のインパクトを発揮させている。1曲目の「GET YOU HIGH」からして既に耳をつんざくかのようなギターのリフが、非常に格好良く、鳴り響いているのだ。

 ギターのリフ、そして、暴れ馬を彷彿とさせるベースのラインとドラムのアタック、これらが三位一体となり、ぶっきらぼうにしゃがれたヴォーカルが乗る。PETER PAN SPEED ROCKにとっては不変のスタイルであって、THE DAMNEDのナンバーをカヴァーした9曲目の「NEW ROSE」においても徹底されている。GUNS N' ROSESをはじめ、数々のバンドがカヴァーしてきた楽曲である。元々がアグレッシヴに攻めてくる楽曲だが、数倍増しの迫力をともなっている点に注目されたい。カヴァー・アルバムとして02年にリリースされた『SPEEDROCK CHARTBUSTERS VOL.1』でも顕著であった通り、楽曲の側にアイデンティティを持っていかれるのではなく、バンドの側が完璧にイニシアティヴを握っているのだ。

 一切の妥協がないほどのスピードとパワーだけが実現しうる領域のあることをまざまざと見せつける。PETER PAN SPEED ROCKの作品はどれもそうなのだが(ああ、そして、ライヴもそうだったが)握り拳で迎え撃ちたくなるようなロックン・ロールの魅力をたっぷりにしている。

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